ネット○○派 part31  ニセ科学批判に意味があったとしたら。。。

ニセ科学批判でもし意味があったとしたら水伝批判くらいしか残らないと思うんですよ。
http://twitter.com/HayakawaYukio/status/21528971675

【仮説】水伝を道徳授業で使うことそのものには、なんら問題がない。それをダメだと決め付けて理由は自明だと逃げた毎日新聞コラムは、不見識だ。

ここ、僕もコラムを読んだときに引っかかったけど、まあ新聞のコラムだからいいやとスルーした。早川先生が言ってるのは、たぶん、「お話」として語る分には問題ないじゃないかということかもしれないけど、実際は教師のほうが「お話」だと思わないのと、子供も信じやすいのがあった。そういう場合を問題視するのは意味があると思う。たとえば、こういう安直さ。
言葉のパワー

(5)水が言葉を理解したかどうかということは問題にせず,子ども達の心を揺さぶる力のある本物の事実として提示するということ

たーだ。。。早川先生、あっさり言っちゃってるけど(http://twitter.com/HayakawaYukio/status/21534402287)、そもそも水からの伝言そのものを知ってる人がそんないないんだ、実際のところ。人から言われて「あー、あれね」という人はいるけど。水伝をテレビで見たという外国人に教えられて、「そんなの知らない」と答えた日本の女の子を僕は知っている。僕のほうが驚いた、というか、呆れた。普通はそんなもん。


つまり、道徳で水伝を使った効果ってどれほどあったのか、で、現在はどうなのかと考えると、ま、ニセ科学批判ってあってもなくても同じ事になってるでしょ。学者が子供の授業参観で「なんじゃこれ?!」と先生や校長に文句を言うって、ニセ科学批判がなければできないことでした?もちろん、助けにはなったろうけど、必ずしもニセ科学批判というくくりでなくても何も変わらなかったと思う。


日本で水伝批判に相当するのが、アメリカの進化論の話が近いかもしれないなと思ったりもするけど、問題として次元が全く違うでしょう?


そこで「よそはよそ、うちはうち」と言ってもいいけど、、、もうこの問題、終わっちゃってますわな。江本勝のサイトみても、しょぼいというか、たいしたことやってない。


で。「水からの伝言」批判の役割を終えちゃってるニセ科学批判に、何が期待できますか?ということで、今やってるのがホメオパシーという消費者問題なわけで、ここまで落ちちゃったのが現在だということなんだな。


このネタ、ずっと以前から気になってどうも違和感が取れない(というよりも、水伝を道徳の教材に使ってはいけないことがどの程度の問題なのか、自分の中で整理がいまだについてない)ので、ひょっとしたらまた書くことがあるかもしれない。


追記
で、早川先生は現実の話をする。こういう観点がニセ科学批判にはまるっきり抜けている。
http://twitter.com/HayakawaYukio/status/21546786101

いま学校現場で行われている授業の平均レベルとくらべれば、道徳で水伝をつかうことの不適の度合いは、目くじらを立てるほどでない。このレベルの不適切(科学的間違い)は、全国で日常的に

http://twitter.com/HayakawaYukio/status/21546794031

おこなわれていることだろうと思う。授業内容よりも学級経営に重きを置くようになった昨今の行政がこの傾向を加速している。残念なことだが、これが実態だ。

個人的に、日本の歴史をほとんどなにも知らず、「子供の供はお供え物の供、お供の供」をまじめに信じていた小学校の先生を知っている。バカじゃないし、人柄もいいんだけど、これでよく小学校の先生やってられると関心したことがある。つまり、もっと根本的に何とかしようと思ったら、校長先生に文句言ったくらいではどうにもならんということで、でもそこまではしないんだよね。ニセ科学批判ってさ。