ってかね:ニセ科学批判そのものがもっと疑われるべし

「お前が文句言ってる根拠からすると、対象そのものがカスなんだから、ほっときゃいいじゃないか」というのはその通りで、まあ、ニセ科学批判者(繰返すがひでぇ日本語だね)の方々は「自分たちの信じているニセ科学批判はそうでない」とひとりごちていればいいのです。


なんでニセ科学批判に文句をいうかは今までもいろいろ書いた。大きな正義というか正当化の根拠も申し述べるつもりもない。それをやるとニセ科学批判と同じになっちゃうからね。ま、ようはただのもの好きだ。


それでもなお新たに何か書くと、ニセ科学批判がネトウヨやはてサみたいに異論を持つものをはてブで集団で突っ込みだす様子を見なかったら、たぶん、ニセ科学批判をネトウヨやはてサと同列においてない。


率直に変なんだ。そうやってみんなで攻撃できるっての。自分も昔やってたからよく分かるけどさ。


菊池先生は「信じるな、疑え」という。でも、ニセ科学批判そのものは疑われないというか、これに異論を差し挟むことは許されないのってとっても変だ。なんか言うと一発で「藁人形論法」扱い。疑えというなら、なんで菊池先生や天羽先生たちを疑わないの?どうして「菊池誠先生はニセ科学批判の第一人者」といってそこで考えが止まるの?


ネット右翼はいないと言ってたときと同じなんだけども、ネットって誤解しやすい場らしい。PCの前にいるのは個人個人でしかないし、利用しているサービスも個人でしかないのに、でもゆるいつながりができると質が変化するらしいんだよね。個人と集団の差が明確でないから帰属意識もゆるくて、理屈の立て方において建前が実態を反映しにくい。


ニセ科学批判はその点で面白くて、たぶん、ネットを経由せずに、リアルで個人個人が勝手にやってるだけだったらなんも問題がない。おそらく、気のきかない変な人だ、で終わってる。集団になったとしても、それなりの組織ができるはずだから、分かりやすくなるんだ。


ところが、ネットでつながりが出来て、この「気のきかない変な人」が集団になると、個人レベルなら通用することでも集団になると変わらねばならない部分が多々あるはずなのに、しかし各々の意識は個人のままであるという、そういうズレがでてくる。たとえば、いつも書くように社会悪で正当化するってのは、個人レベルの意識ならまだ問題ないかもしれないけど、集団になって「こうあるべきだ」とか異論に対してブコメで叩くとか、そうなるとちょっと様相が変わってくる。


これが不思議というか。日本人論につながったりするのかと思ったこともあったけど、たぶん日本人に限った話じゃないだろな。


まあ、そのへんのことについて相当慎重に注意しながらニセ科学批判をやってる人もおられるみたいでそれはいいんだけれども、でも必ずしも理解されてないというか現実に反映してないというか、たとえば菊池先生がニセ科学批判そのもののあり方を疑って「自己批判」するということは、ちょーっと考えにくい。


だいたい早川先生みたいな議論って、出てくるのがむしろ当然でね。もっと徹底させると別派を作って一家を成すこともできようけれども、ま、ニセ科学批判は菊池先生がリアルの団体としてまとめることから逃げてしまっててそういうことはしにくくなっている。


信じるな疑えと言うならば、まず疑うべきものがあるんじゃないの?