誇大妄想を法律反対論の根拠に据える意味

改めてBewaadさんのエントリを読んだ。いちいちもっとも。
http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080317/p1

で、最後にオウムの微罪逮捕の例をあげて、

これらは皆、地下鉄サリン事件後にオウム真理教(当時)信者を逮捕する際に用いられた手法です。これらを批判しないのであれば、それは現行法の運用を是認しているということにならざるを得ないでしょう。言い換えれば、これらが自らの身に降りかかってくることを心配しなくてよい世の中であるということは、「自動冤罪プログラム」とやらを心配しなければならない可能性はそれよりもさらに低く、合理的でないということなのです。

としめた。必然的にこの部分には批判があるわけで、、、
はてなブックマーク - ネット関連規制反対派は法律関係者がネット技術をわかっていないと批判する前に、自らが法律論をわかっていないことを自覚すべし - BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com

zettpeki というよりこの「全面的に権力を信じるのだ!」というスタンスそのものが最早単なるアジでしかない事にいい加減気付け。 2008/03/26
heroin_25 別件逮捕の例を出して自爆。「法律論を分かっていない〜」というタイトルは執筆者自身をも指していたというオチですか。何という自虐ギャグ。 2008/03/26
paulownia 法律 誇大妄想って言うけど、それだけ立法・司法が信用されてないって事だよ

でも、これは全くの誤解でしょう。「これらを批判しないのであれば」、つまり権力の運用に本当に、真の意味で当事者意識を一般の人たちも持っていれば、ということなんではないですか。


この手の反対意見に共通するのは、なぜか権力は自分の外にあるものだと思ってる。いや、当事者意識があるからこそ反対するんだというかもしれないけれど、「信用されてない」ってことはつまり自分たちの国である日本の民主主義を信用してないということでもあるわけ。


いや、完全に信用しろとは僕は言わない。言いたいことはそうではない。たとえばオウムの微罪逮捕だって世論の後押しがなくても警察は同じことを果たしてできたのだろうかという素朴な疑問を言いたいにすぎない。


つまり、悪いのは警察だけじゃない。微罪逮捕を黙認した我々自身でもあるはずだろうに。人権擁護法案反対運動でもそう、児童ポルノ法改正案でもそう、反対論を構成する妄想がまるで他人事で、そういう意味での当事者意識がまるで感じられないんだ。


権力への不信から誇大妄想を膨らませるならどんな法律にも誇大妄想を膨らませて、最終的に日本の民主主義そのものを妄想で破壊してくれ。それが無茶なら、日本を現状の法体系で民主主義国家たらしめるのはなによりも国民自身なのだと、まともな常識と穏やかな自信を持つべきではないのか。



つい先日だって、
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010033000193

青木部長は「事件を風化させず、テロの悲劇を二度と繰り返さないことが大事。正義にかなう」と強調。

と警察が言ったばかり。違うだろう。正義を決めるのは、本当に警察なのか?とここは批判しなければならない。そういうことを繰り返しながら、単なる権力不信で終わらせずに、まともな当事者意識や常識を育てるべきなんだろうなと思う。



・・・と、エイプリルフールなのに、なんかくそまじめな感想文。