そこから先の問題

リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground
ネット上のいろんなことを想像しながら読んでも面白い。沢山引用したいけれど、一箇所だけ。

価値多元主義を前提とする私たちの社会で社会的議論の対象になるのは、個々の「利害」そのものが妥当なものであるかどうかではなく、様々な「利害」の内でどれが社会的に対処すべき問題として把握・対処すべきであるのか、ということに限られます。すなわち、多様な「利害」の政治的イシューとしての序列付けと、その際の公共的リーズニング(理由付け/推論)だけが争われるのです。



ただ、これが微妙なんだ。

有志の科学者たちによる「ニセ科学」批判に代表されるように、社会が真剣に取り扱うべき問題が何であるかについて、(特に専門的知見を活かして)積極的に発言し、政治的/経済的/社会的資源の投下基準となる価値序列付けに介入していこうとすることは、よいことです。それは素朴に良いことです。


ただし、そこで争われているのは各々の論が科学的であるか否かではなく、社会が取り組むべきイシューとしてのプライオリティについての適正な判断でしかありません。

僕は「有志の科学者たち」に全く批判的なのは、これが微妙だから。だいたい「専門的知見を活かして」いるとまで言えるのかどうか不明で、結果的には「大学教授」「科学者」というタイトルを利用してるだけになってる。


菊池先生の「危機感を共有できないのは結構。しかし、それならなぜ沈黙を守らないのか」(これ)という問題意識の有り様をみても、このエントリの主張するようなものではなく、むしろ

「科学的知見への敬意を」というタテマエ的「立場」の裏に潜む、「気に入らない奴らを一掃する武器が欲しい」という昏い欲望=「利害」を見ないわけにはいかない

と批判されているようなものだと捉えた方が、素直な見方だと思う。


もう少し言うと、「気に入らない」と言うとただ主観的な感情でしかないが、菊池先生の場合はそれが社会的善だという裏付けを設定して、それを信じてる。(しかも、「優先順位問題」がこのエントリの主張と一見重なっているので、また厄介だ)


別にさらすわけでないけど、
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woykiakes 政治 人は政治性からは逃れられないが、ニセ科学批判の側が政治性を意識すべき義務なんてあるのか?非科学的なデタラメは単に「悪い」んですよ。

こういう安直極まる見方が、「有志」を含めたニセ科学批判の人たちの見方だと考えた方がいい。


おそらく、社会に科学的知見を生かそうとすることそれ自体(誤りの修正も含めて)を駄目だという人はそんなにいないはずだ。ただ、そこから先の問題に全く無理解なのが問題なんだ。