「疑う心」と「好奇心」

断固害、失礼、dankogaiさんが「ニセ科学対策本」を取り上げるわけだから、やっぱりニセ科学批判はダメだと思った私は悪人だ。
404 Blog Not Found:全小中学校に常備すべし - 書評 - ニセ科学を10倍楽しむ本
ま、山本弘、と学会ですからね。でも、眺めてて、僕が感じている違和感の根っこの一つがちょっと分かった。

「知式に対する誠実度」だと、私は思う。


知式というのは私がひねりだした言葉であるが、平たく言えば「疑う心」。ある言説をどう疑い、そしてある疑惑をどう晴らすのかという一連の手続きが、知式である。ものごとに知式をもって接するありさまがリテレートであり、それが出来ることがリテラシーであるとするのが。

例によってのホラはどうでもいいんだけど、そういえば、菊池先生も「信じるな、疑え」という記事があったっけ。
ASCII.jp:信じるな疑え! 「ニセ科学」批判の菊池教授に聞く (1/3)


でもこれっておかしいわな。


人間の知性って、疑うことにあるんでなくて、疑問を感じることにあるんじゃないのかな。。。つまり、好奇心。


「疑う」は、そもそも既存のなにかの正当さについて「疑う」という、でしょ。他方で「疑問を感じる」は、「これってどうしてだろう?」もっと知りたいという、ただの好奇心。


で、容易に信じるな、疑えっていう。でもどうなんだろ。疑えと言って、何も信じずにすべての命題を疑うことは不可能だ。人間、なんか信じてないと生きられない。


つまり、疑え疑えというなら、何を疑うの?


横文字のSkepticismなら、宗教的政治的権威を普通は疑うわけだ(合理主義云々はその裏返し)。で、日本なら何を疑うんだろう。。。こっから先は例の「グレーゾーン問題」になるんだろうけど、たぶん、ニセ科学にひっかからないようにしようというなら、この議論は無意味なんだと思うな。


たとえば911陰謀論なんてあたしゃ別に細かく知らないけど、「そりゃ駄ボラだ」と退けて疑ってない。なぜなら、常識に頼って判断してるから。いや、ちゃんと調べたら細かいことはきっといろいろあるだろうけど、でも大筋はそれでいいんだろうと信じている。


でも、陰謀論を信じる人たちって、現実には「疑う心」を発揮してるから「状況証拠」を次々つなぎ合わせていくんで。。。厄介だね。


ようはこういうのって常識で判断してるだけで、「ある疑惑をどう疑い、どう晴らすか」なんて七面倒くさいことはやってない。ショートカットしてる。それってリテラシーでもなんでもなくて、ただの常識の問題にすぎない。


つまり、常識の世界に安住して揺るがないから、トンデモに接した時に否定するなり、ネタとして面白がるだけの抑制が利くわけだ。ひょんな拍子で常識が揺らぐと、「ありがたい壺」に頼るかもしれない。それは疑いが足りないのでなくて、人間、そんなものなのだと思う。


でも、きっとこういう常識の世界って、「科学リテラシー」とかと真反対なんじゃないの。といって、常識を疑えってのはニセ科学対処法としては意味ないし。。。



で、外国のホメオパシー批判も日本のそれも、なんか変だというのも常識に頼っている。何が変なんだろう?というのはただの好奇心。疑問を感じない人に疑問を感じさせるのは無理だ。ホメオパシーを確信的に信心してる人に疑問を感じさせることができないように。


このあたり、何か根本的にずれてるんじゃないのかな、という気がする。