おかしい人への絡み方

正しいことを言っているということは、必ずしもすべてを肯定しない。まあ、はてサでもネトウヨでもよく見た。たとえば、、、いっつもネトウヨの悪口を言ってるから、ネットのサヨクでも例にしてみようか。


たとえば、だれかがサヨクにとってケシカランことを言ったとする。仮に、「南京大虐殺はなかった!」と言ったとしよう。


もちろん「南京大虐殺はなかった!」というのは間違っている、そして今頃こんなことを熱心に言う人はおかしい人だ。だから、普通は生温かく見守る。


でも、なんかの拍子で火がつくことは不思議なことではない。サヨクの人たちがこのネタに飛びついて議論を吹っ掛けることもあるだろう。


南京大虐殺はなかった!」という人はおかしい人なので、当然議論もおかしくなる。だから、議論に負ける。そらそうだ。


ただ、不思議なのはサヨクのほうもあれで、妥協がなくて徹底的にボコりたがる。ブコメで笑ったりね。いや、そりゃあんたがたが正しいのは分かってるが、元々おかしい人をみんなでボコってそんな嬉しいか?みたいな。僕はそう思う。


南京大虐殺はあったんだ!ないというなら根拠を出せ!」という、それは分かります。まったく正しい。


でも、意見が正しいことは必ずしもその人のすべてを正当化しない。この辺のさじ加減が難しいんじゃないの。


・・・ってなことを言うと、「ネットでデマは許せない!」とか言いだす。そりゃそうです。でもさ。ネットのデマでどのくらいの人が迷惑するの?しかも南京大虐殺否定論とかって、一般には関心ないじゃない。ちゃんと南京大虐殺の詳しいサイトもあるんだし。おたくら、その反応はバランスがとれてないでしょ。



こう書いてしまうと醜い構造だなと思うけど、でも当事者たちは決して醜いとは思っていない。むしろ、中心となるブロガーを「すごい」とか「えらい」とか思ってしまって、ファンも結構つく。なにせ、僕も同じことをしていたのでその辺は覚めて見ている。


ただ、意図的にやってると批判されたこともあるんだけど、そこは微妙なんだな。全く無自覚ではないんだけど、でも読み手には受けてるし、楽しいので、態度を変えて不人気にする理由がない、ということはある。何が問題か分からないというか、悪気がない。困ったことではあるんだけども、仕方がない。


でも、おかしいでしょう。おかしい人がおかしいのか、おかしい人を叩く人たちがおかしいのか。おかしいね。


[書評]その科学が成功を決める(リチャード・ワイズマン): 極東ブログ

そうした点から見て、本書で私が一番興味深かったのは、行動経済学的でもあるが、集合知が機能しない各種の事例であった。中でも「集団は暴走する」は経験的にわかっていても、しんみりと納得する。

 人種偏見をもつ人々が集まると、個人でいるとき以上に人種問題について極端な決定を下すようになる。見込みのない事業に投資したがる実業家が顔をあわせると、破綻が目に見える事業にさらに金をつぎ込んでしまう。暴力的な若者が徒党を組むと、ますます凶暴になる。強い宗教的、政治的理念をもつ者同士が集団を作ると、考え方が極端になり暴力的になりがちだ。この現象はインターネットにも出現する。