ブログにおける正義の構図

ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 : 社会学玄論

まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学批判者はほとんどいない。菊池教授のブログ「キクログ」という聖地があり、多くのニセ科学批判者が集い、語り合う。サブリーダーたち=常連たちがおり、その下にあまたのニセ科学批判に同調したブロガーやコメント屋がいる。

例えば、安易なニセ科学批判を自己のブログですると、サブリーダーたちからの襲撃をくらい、異端者のレッテルを貼られ、正規のニセ科学批判者のグループからはじき出される。
 そのようなかたちで、当初、ニセ科学批判に賛同していたブロガーが、自己の説の自由性・個別性を否定され、ニセ科学批判批判者へと変貌していくのである。ニセ科学批判は誰にも開かれた思想ではあり得ないのである。異端派のニセ科学批判者は、いずれニセ科学批判批判者となるのである。

まあ、ホメオパシーひとつ取っても、頭から全部ダメというのと、外国のはまだいいけど日本のはけしからんという人までいるから、そういう意味では多様性はありますがね。


でも、ここで書かれてることってニセ科学批判や菊池先生に限ったことでもなくて、ブログ界隈は程度の差はあれこの構図になってる。つまり、頂点からただコメントする人間までピラミッド形。明確な上下関係がある組織じゃないにしてもね。


ただ、普通はそれほど過激にならない。趣味のブログを好きで読んでるとか、そういう考え方もあるんだーと感心するとか、コメントするとしてもその線でコメントするものだ。


ところが、「これが正しい」といいだすと厄介である。ネット右翼やはてサを見てるとすごく分かりやすい。


なにせ正しいんだから、自分たちの立場を正当化する理屈は自然発生的に成立するし、みんなそれを信じる。それがおかしいとか疑問を持つということがない。疑問を持ったら最後、そのグループからはずれる。


ニセ科学批判でも同じことをやってる。

ニセ科学批判は、宗教組織と同じであり、教義は一つであり、それは菊池教授のニセ科学批判思想である。従って、菊池教授のニセ科学批判思想をニセ科学批判として一般化することが可能なのである。ニセ科学批判の個別性・多様性は存在しない。

ということに、結果的になっちゃう。ニセ科学批判の人たちに自覚ないでしょうがね。外国の団体のほうが、懐疑論で路線対立して内ゲバできるだけ、まだましなのかもしれないね。


ニセ科学批判は科学の方法の問題だと言う人と、詐欺だと言ってる人の間で問題意識の統一はなくてその意味ではバラバラ。ようは単に自己正当化できさえすれば、整合性はどうでもいいんだ。。。という意味では自由だという、それくらい)



ちょっと余談になるけど、はてブにありがちな「同意」と「これはひどい」ってな言葉は、よく象徴されてる。ネット右翼にしろはてサにしろ、そしてニセ科学批判にしろ、ようはこの二択になりやすいんだ。間がない。それも自分は正しいとどこかで思い込んでるからだ。



これが、ネット右翼やはてサなら、政治的立場の違いがあるから、そこで喧嘩になったり、見てるものは意見を比較できたりできるので、そこはまだいい。でも、ニセ科学批判は違う。


ずーっと書いてるから繰り返さないが、菊池先生や天羽先生の持っている思想がどれほど過激か分かれば、とてもじゃないけどニセ科学批判に賛同できるはずがないんだな。


いや、それでもいい、ニセ科学批判は素晴らしいというなら、どうぞご自由にと言うしかない。でも、現状、そうじゃないじゃない。なんとなくニセ科学批判はいいことだと思われてるのがネットでの一般的な認識で、ニセ科学批判とは縁遠そうな専門のブロガーまで菊池先生を例にあげたりしてる。


つまり、煽り手の先生たちの考え方の根っこが十分によく知られてない。ニセ科学批判で本当に批判されるべきものは、彼らの物の考え方の根底にあるもの、なんだと思うな。
Abstract for Symposium at JPS meeting Sprin 06 (Ikeuchi)
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