合理性への素朴な信頼感

菊池先生なんか明らかだけど、ニセ科学批判の根っこの一つはオウム事件だ。


一流大学の理科系の院を出たりしたような人たちが、カルトに引っ掛かったことが疑問だったわけだ。つまり、合理的・科学的思考を磨いていたのではなかったか、合理的にものを考えられさえすればカルトに引っ掛からなかったんじゃないか。。。


答えを先に書くと、それとこれとは別の問題だろう、いくら合理的思考を磨いたって、カルトに引っ掛かるもんは引っ掛かるだろう。


ウソだというなら、今のテロリストを見てごらんと。エリートが自爆テロ、「カミカゼ」アタックをやっとるやないかと。オウムに限った話やないんやな。


なんでこうなるかの議論はたぶん深遠すぎて、とても書けないし、書く能力もない。ただ、頭が良すぎるから、自分に都合のいい理屈を作ったうえに、さらに理屈上倫理上の困難を容易に突破してしまうんじゃないのということは書いた(これ)。そういうことはあるかもしれない。でも、もっと根本を言うと、人間の知性や性質に根差した問題のような気がする。


何を言いたいかと言うと、合理的な思考の重要性は否定する気はさらさらないとしても、かといって合理性さえ磨けばカルトに引っ掛からなかったはずだみたいな考え方に賛成できるほど、あたしは素朴でない。


この素朴さは、ニセ科学批判全体に言えることのように思われる。たとえば、池内了御大の物理学会での演説は、明らかにこの素朴な信頼を背景にしている。合理的思考ができさえすれば、みんなが合理的になれば、世の中もっと良くなるはずだ。ああ、素晴らしきかな、合理性!。。。そんなうまいこといくかいなって。
Abstract for Symposium at JPS meeting Sprin 06 (Ikeuchi)


やっぱり、ニセ科学批判はと学会のネタにとどめておくのがちょうどよかったと思う。。。にしても、海外のニセ科学批判サイトを見ると、なんでこの人たち、このネタでこんな一生懸命になれるんかなって思うな。反宗教・無神論者のプロテストの要素はあるにしても、不思議な人たち。なんであんな一生懸命になれるのか、たまに眺めて、理由を見てみたい。