社会規範の件について

ニセ科学批判を正当化するのに社会規範を持ち出す理屈とかって、こんなのを信じるニセ科学批判の人たちの論理性っていったい何なんだと思うんですよ。この自己正当化のための論理っていったいなにって。


社会規範論って一般にはつまり、ニセ科学なりそれに基づく詐欺商法ってのはけしからんものだ、社会規範に反する、社会規範に反するものを(一社会人として)批判して何が悪いんだ、という理解でいいんでしょう、たぶん。


これが問題なのは、社会規範とニセ科学批判を行う自分たちの行動をダイレクトに結び付けて正当化してることじゃないですかね。


一つは、社会規範の中身の問題で、そんなものは時代によって社会によっていかようにも変わってしまう。実際、ニセモノは批判されて当然だなんてことは全くなくて、むしろニセモノに満ち満ちて共存しているのが、それが社会というものです。それに、社会規範に依存して理屈を作るなら、たとえば中国人朝鮮人の存在は社会規範に反するから特亜批判は同語反復だって議論もできてしまう。ある意味、万能なんですよね。


難しい科学論は存じ上げませんけど、科学ってそんなこととは独立したもののはずでしょう?社会規範がいかようにあろうとも、間違っていることは間違っているというのが科学者じゃないんですか?


二つ目。批判するだけのことなら社会規範論は成立するかもしれないけれど、それ以上のことは正当化し得ないのに無反省なこと。どこまで社会規範で正当化されるかは、もうちょっと吟味される必要がある。


たとえば、ニセ科学批判の人たちの態度って社会規範からすると認められるもんじゃないことがありますわね。許されるものではないから批判されますわね。しかし批判だけでは現実が動かないから、ニセ科学批判の人たちは新型インフルエンザで「駆除」されてしまえばいいという議論だって、できますわね。なにせ問題は社会規範に関わることなんだから。


社会規範という大きなもので自己正当化して「批判」を名目に他人を排除せんとするって危険なんです。排除と言って言い過ぎならば、たとえばニセ科学批判にいささかの疑問を提示しただけでよってたかって罵倒したって態度が悪いだけじゃないかと自己正当化するところまで先鋭化してる、その無反省ぶりだって社会規範論で正当化できちゃう。自分たちは正しいのだから、と。


ただでも科学の体裁があるからのりやすくなってるのに、社会規範を持ち出すとさらに使命感・正義意識に火をつけやすくなるわけで、本来ならばこの議論は相当慎重にしないと危ないはずなんです。だけど、すっとばしちゃってんですよね。ニセ科学批判は同語反復だって言って納得してるのがいい証拠で、社会規範の文脈でこういうことを言うのは、はっきり、危険です。


それでもなお社会規範論を持ち出すならば、それは「批判」まで、せいぜい警察なり何なりしかるべきところに知らせるところまで。それ以上はほとんど行政や政治の問題で、社会が科学に期待していることの範疇を超えちゃう。結局、ニセ科学批判は本当に「批判」にとどめる以外に選択肢がない。


まあ、たかがネットでうだうだやってるだけですし。たいした問題じゃないんだけど、しかしニセ科学批判の人たちが言ってる理屈自体は相当危険で、僕がこりゃナチズムか全体主義かと言って笑うのは、こういうことなんですよ。たぶん、ひと頃、宗教めいているとか科学教かと言われたのも、このあたりの過激さに由来してると思いますよ。


これだけ過激な議論になってるって、つまり、ニセ科学批判に対する批判が認められない、ちょっとおかしいところもあるんじゃないか程度の言辞も認められない、認めたくないという気持ちが、自己正当化の議論を過激にして鵜呑みにさせてるわけでしょう。それだけ、自分たちの正当さ正しさを確信していることの反映ですよね。とくに天羽先生ってそういうことが多いように見受けられるんですが。


だから、自己正当化してくれる理屈なら社会規範論みたいな屁理屈にものっかってしまうニセ科学批判の人たちってなんなんだと。まるでニセ科学にすがる人と同じことをやってるじゃないかと。より合理的で論理的であるべきはずの人たちなのに。