態度の問題の向こう側

態度それ自体が問題なのは、昨日書いた通りで、ネット右翼ニセ科学批判もよく似ていて、開き直って済む話とはちょっと言えないと思っている。


で、態度の問題というとき、態度自体もさることながら、なんでそういう態度を正当化できるのか、多分この問題の方がもっと大事なんでしょう。「なんで」というのは、態度の背後にある考え方そのものにどこか原因があるんだろうという意味で。


ネット右翼が煽ったのは、自分は日本人だという誰にも否定できない事実に関する意識の持ちようだった。それが過剰だっただけで、ああいうことになった。


自分は日本人だというのは誰にも否定できないから、絶対のよりどころとして正義の旗になりうる。彼らが「反日」という言葉が好きなのは象徴的で、自分たちと意見を異にするものはそれだけで「反日」的だというのは、ある意味では筋が通っている。


ニセ科学批判の場合、ことが科学だけに、多くは正答がはっきりしてるだけ簡単に正義になりやすい。その正義の意識が、態度にも、言葉にも表れる。「間違いを間違いと言って何が悪い」というのは、その表れの一つ。自分が正しいことと、正しいから何を言ってもいいというのは、本来は別問題のはずなんだ。

 なんて言えばいいんでしょう? 最低のクズは最低のクズ以外のどの言葉で表しても嘘になりますが、私は、嘘をつくべきなんでしょうか。

ニセ科学批判者に求められる態度 - みつどん曇天日記
大学生がこういうなら分かるんですよね。元気やなあという感じで。しかし、そうでないなら、まあ、こういう人もいるだろうとは思うけど、僕は全く共感できない。


科学としてなんか言うなら、「これは間違っている」で本当ならば十分のはず。「最低のクズ」という言い方には、自ずから価値判断が混じっている。その価値判断、余計じゃないですか。


「最低のクズ」と言いたくなる気分も分かるけど、それってもう科学とか合理性とかの範囲の話でない。つまり、「最低のクズ」と言った瞬間にもう一線を越えてしまっています。


問題の一つは、そこで一線を越えたという意識がないことだ。だから、あとは突っ走るだけ。我々は正しい、間違いを間違いと言って何が悪いと正義の集団となる。


天羽先生が「駆除」と言っちゃうのも同じで、価値判断抜きで言ってんならこういう言葉は出てこないんですよ。でも、言ってる本人もそれを読むほうも問題だとは思ってない。それくらい盲目になってるのが、今のニセ科学批判の問題なんだ。


だから、これって科学論とか科学哲学とかの話ですらないんですわな。だいたい、科学だの合理性・論理性だのをこういう形で正義の御旗にたてていいんだかどうなんだか。


しかし、ネット右翼ニセ科学批判って本当によく似ている。ネット右翼は「反日」と言えば何でもかんでも陰謀論かますけれど、ニセ科学批判の方もニセ科学となったらやたら誇大に煽るんだから。