この猛暑で、学校での子供たちの扱われ方について、ネットを見ても、まあ学校の先生なんてそんなものですよと思う。学校の先生だけではなくて、地方公務員全般がだいたいそういうレベルであってろくなものじゃない人間の方が多い。もちろん、立派な人たちもいるのは当然として。

しかしもっとひどいのは、確かにコネ採用なども多いようだが、しかしあれでもまだ平均レベルかそれより上程度の人たちのはずだ、ということではないかと思う。

つまり、あの人たちはまだましなんではないか。

そういえば、先日、挨拶などを強要する学校の話を書いたが、それを胸を張って自慢するのはその学校のOB会の会長だったりするのだ。

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こうなると、日本社会に絶望する人も少なくない。

しかし、今のところ、現在の自分は次のように考えたいと思っている。

日本人全体を今すぐ改造するのは無理だが、しかしまず私のほうから善導していきたい、身の回りにいる人たちに少しでも良い影響を与えたいと私は思っている。

もちろん、強制は無理だが、少しずつ影響を与えて、ものの考え方や行動を変えていくことはできないわけではない。それは時間のかかることであって、少しずつしか変化しないうえ、影響を与える範囲もきわめて限られている。

しかし、何もしないよりはましであり、それは人のためというよりも、少なくとも私が居心地なりたいがために、基本的人権を尊重し合った環境を整備したいのだ。

絶望は容易だが、絶望する前になすべきことがあるはずだ。

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私が好きなイタリアでもそうだが、基本的人権の観点から見ると腹立たしい話はたくさんある。それはどこの国でも同じだろう。

日本と違うのは、そこで絶望して現実をまるまる是認しないことにある。

ある理念を現実化するために、少しずつでもいいから前進する、また前進のために理念を常に念頭に置いておく。

日本人は理念と現実の往還が下手だと常々思っている。理念と比べたら、現実の醜悪さにくじけそうになるが、理念というものはそもそもそういうものであって、そこでくじけてはいけない。また、理念が現実とかけ離れているからと言って、理念を非現実的なものとしてただ否定するだけでは進歩はない。現実を理念に近づけるために少しずつ前に進むことに意味がある。

だから私は、絶望したり、むやみにシニカルになる前に、まだやるべきことがあるだろうと思っている。