さまざまなことについて多様性は重要だが、表明される意見の多様性もまた重要だろう。私が、ネット〇〇派として、ニセ科学批判のようなものを取り上げた理由の一つはそれだった。

ただ他方で、意見の多様性は大事だとしても、たとえば「ホメオパシーに科学的な根拠はない」というのは、それは確かにそうなのであって、そこまで相対化させることは不可能だ。

大事なのはこのバランスであって、ニセ科学批判の場合は明らかにバランスを崩しているので、そこに批判の余地があったのだった。

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それなりの知性を持っている人が「ホメオパシーに科学的根拠はない」という点を疑ったとしよう。そうすると、反論が出て、それは違いますよという人が必ず出てくる。ちゃんとした学者が反論を言ったとしよう。ホメオパシーに科学的な根拠はありませんよ、と。普通は、そのちゃんとした学者の言うことを信頼する。

そこで、「ホメオパシーに科学的根拠はない」ことを疑っている、それなりに知性的な人が「意見は様々ですね」と返したら、今度はその人の知性が疑われるのではないだろうか。

もちろん、それはそれでよいのであって、それで知性が疑われたとしても、その人の勝手であり、また自由だ。バカと思われようがなんだろうが、構わない。

それは当然の前提としたうえで、そこで「意見は様々ですね」と相対化するのは、単に意固地なだけではないか。ちゃんとした学者の意見を聞かない言い訳に、「意見は様々ですね」と寛容ぶっているだけではないか。

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ホメオパシーに科学的な根拠はない」ということなら非常に明確なので分かりやすいが、世の中、そういう話ばかりではない。むしろ、もっと曖昧なことの方が多い。

それでも、たとえば高橋洋一のように、統計の扱いがおかしいと散々言われた人をいまだに信頼するというような場合は、かなり上記の例に近い。

そこで、「意見は様々ですね」と言われたら、アホか、としか言いようがなくなる。

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意見が多様であることが大事なのは、頑固や意固地の言い訳として利用できるから、ではないと思う。

まず、自分が自由に意見をいう権利を確保したいから、そして自分の中で異論をぶつけることで検討したいから、この二点が少なくとも挙げられる。

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それはもっと大きく、倫理のような問題でもそうだ。もちろん、個人レベルや国や民族レベルの違いは当然尊重されるべきだ。

ただ、私は常々イタリアと付き合っていて、多様性の尊重だけではいけない、それだけではいけないものがあるのではないか、と考えるようになった。

無論、「普遍性」をもって何でも押し潰すわけにはいかないが、と言って、多様性を尊重するだけでは、単に相対主義の泥沼にはまり込んで独りよがりになって終わるだけだろう。

我々は、基本的には同じ人間だ。同じ人間だから、言葉が違っても、共通の土俵で話ができているのだ。

さて、どう考えればよいのだろうか。

その答えは私は持っていないけれども、度々そういうことを考える。

「意見は様々ですね」という時も、同じようなことが言えると私は思っている。意見の多様性は重要だけれども、他者との検討を拒否するために、多様性があるのではないはずだ。