2016年のダッカ・レストラン人質事件で、日本人の人質が"I'm Japanese. Don't shoot!"と言って殺されてしまった、という話があった。これに私はずいぶん腹が立ったものだった。

というのも、不幸にあった人がそこらのおっさんならまだしも、JICAの関係者らしいからだ。JICAの人でもこうなのかと相当に落胆した。

もちろん、人が死ぬ前の絶望的な状態の中で口走ったことに対して、よくそんな批判的なことを言うという意見をいろいろ見たし、それは私もよく分かっている。

しかしそれでも、"I'm Japanese!"と言えば何とかなるとボンヤリ思っているところがあるというあたり、なんなのだろうかと思う。むしろ、まさに「必死」だからこそ、本音が出ているのではないだろうか。

日本人は、世界の中では別枠の存在だと信じていたりするから、こんなことを最期に言ってしまうのではないだろうか。世界の文脈に組み込まれている実感も自覚もないのではないだろうか。常にどこか他人事なのではないだろうか。だから、"I'm Japanese!"と言えば、それが免罪符となってイスラムテロも免れると信じていたりするのではないだろうか。

私も、同じような目にあったとして、うっかりそういうことを言ってしまったりするのだろうか。

JICAの人でもその程度の覚悟でバングラデシュにいるのであれば、それ以外の日本人の性根はどうなっているんだろうか。

不幸にあった人々への追悼とは別の問題として、今の日本の世相を見ると、とりわけこういったことを考えざるをえない。またこの言葉を平然と、むしろ哀れなエピソードとして報じた報道機関、あるいは「日本人」という免罪符が使えなくなったのは安倍政権がと政治批判に利用した評論家たちなど、すべて論外なのはいうまでもない。