産経新聞あたりや、ネットの右派あたりのものが目に入ると、本当に呆れるようなことしか言い出してない。今日もそういう記事を見た。

これは左派も同じことをやっているし、数十年前なら今の右がやっていることを左が大々的にやっていたのだろうかと思わないでもない。

だから、政治に関わるのは嫌だ、こっちが汚れる。

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と思うし、そこまではまだよいとして、だから「自分は右でも左でもない」という方向に行くのはどうか。

そういう人に限ってものすごく右寄りのことを平然と言い出すというのはネット・ウォッチをしていると普通に見ることであり(政治状況が変わると「自分は普通」と言いながらものすごく左寄りのことを言い出す人が増えるんだろうが)、「自分は普通」「自分は右でも左でもない」の類が何の言い訳にもなっていないのは、これは言うまでもない。

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もう一点、現実問題として、日本の庶民は非常に保守的で右寄りだ。そこで、右派の妄言の類がネットやメディアを通じて広がることの問題というのは、もうちょっと危機感を持ったほうがいいのかもしれない。

そう考えたときに、「自分は右でも左でもない」で済むかどうか。済まないだろう。

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これはあるいは倫理的な問題もあるし、正義の問題とも絡む。

確かに、正義感や倫理性が昂進した時の問題というのはある。それは私も警戒している。ネット上ではそれが特に明白で、ネットの炎上騒ぎに私が火をつけたことがあり、いわば扇動した経験と反省があるからだ。

しかし、そのことは、あらゆる倫理的判断やあらゆる正義をカッコに括って、判断をいったん停止しよう、ということを意味しない。倫理的に問題があるとすればそれは問題で、それが正義なら正義として吟味する必要があるのではないか。

私は不勉強だからこういう倫理学の問題や正義論に全く疎くて、何も知らない。だから今の私の考えはここで止まる。

ただ、正義の昂進を警戒するあまり、過度の相対主義や、倫理的な力を失うようなことはあってはならないのではないか。そのバランスをどうとるかが問題ではないか。