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独り言a.k.a元祖御用一般人@eigadaikirai
「韓国人は朴槿恵の国家私物化にまだ純粋に怒ることができた。
日本人は安倍晋三のやりたい放題にもう怒ることもできない、、あるいは仮に怒っても一方で 安倍の対北朝鮮危機「ポーズ」などには易々と騙されてしまう、、」

小学校の6年生の時、短気な自分が嫌いで、今年の目標として「短気を直す」と作文に書いた記憶がある。

子供のワガママ・癇癪もあったに相違ないので、今はさすがにすぐにキレることはなくなったが、怒るときはやはり猛烈に怒る。

つまり、子供の時から「怒る」というのが私のテーマの一つになっている。

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仏教の影響だと思うが、日本では怒ることそれ自体が不道徳になっているので、これを抑制しようという方向に向きやすい。あるいは最近では「アンガー・マネジメント」なる言葉があるくらいだ。たしかに、コントロールできない「怒り」は問題だろう。

ただ、怒りを全否定するのがそんなにいいことかというのは、かねがね疑問に思っている。

ある子がいじめられたとする。彼は身体的・精神的、時に経済的に人権を侵害されているのであって、怒るのが当然だ。むしろ、怒らないといけない。怒らないと、自分がどういう目にあっていて、どう思っているのが、周りに伝わらない。その人権侵害を許容したように思われてしまう。身を守るための怒りが必要だ。

もっとも、たいていいじめられるような子供は、そこで怒らない、優しい性格だったりするから解決が難しいのだが、それはまた別の問題だろう。

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これは大人であっても同じで、怒らない人間は人間が出来ているかのように思われている節があるように思うが、本当はそうではなくて、怒るべきところで怒らない人間は、単に中身がカスカスで、頭がついていないからだ。

怒るべきところ、怒るべき時、というのは、いろんな場合があると思うが、たとえば人権の侵害なり、倫理観念に抵触するようなことがあった場合に、それはいかんだろうと言って怒る。そこに客観的な基準があるかどうかはまた別の問題で、少なくともその人の主観において、その人の倫理観念における問題として怒る。

怒るべきところで怒らない人間は、「大人」なのではなくて、単にその人の倫理観念や、極端な場合は主観がないから怒らない、感情そのものがないから怒らないのであって、だから「中身がカスカスで、頭がついていない」と言う。

そこで怒りが暴走する、ある集団の正義が暴走するということには私は警戒したいほうだが、しかし怒るべきところで怒ってその怒りを現実に反映させて問題解決させる、ということも必要なのは間違いない。

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世の中、穏やかに話し合って解決する問題ばかりなら大変に結構だが、それで済むことばかりではない。

たとえば、私たちが、あるいはこの私が、現に基本的人権が保障された生活を送れているのは、過去に多くの暴力行為と、人々の血と命のおかげであることを思う。平和的なデモやストライキだけでは、人権は獲得されなかったし、保障されえない。

そこをどう考えるか。私にはとても手の出せない問題だけれども、そういう問題があると言うことは頭の片隅に置いておきたいものだと思っている。

少なくとも、眼前に何を見ても、何をされても、怒らなくなっている今の日本人の多くよりは、そのほうがまだまし、まだまともではないか。