「批判」の(日本的)心性について

いろいろ見ていると、日本で行われるさまざまな「批判」について、不満が出てきた。

自分があることを言明するとして、そのあることは口から発せられた瞬間に、自分の方に向かって切り返してくるものであると、私は思う。

たとえば、このブログは、ネット上の徒党やその暴力性について「批判」してきたつもりであるが、しかしこれは同時に自分に対する「批判」でもある。なぜなら、自分はもともとネット右翼やネットの保守派とかなり近い時期があり、あるいは「正しい議論」を認めさせるために議論をふっかけるとか、徒党を組むといった、まさにこのブログで私が批判していることをやっていたのである。

したがって、私がこのブログで執拗に書いていることは、自分自身に対する批判でもある。表面的にはニセ科学批判やネットリフレ派を攻撃的に批判しているような体裁をとっているが、同時にこれは自分自身も攻撃しているのである。

ある言明が自分自身に跳ね返ってくるというのは、なにも批判に限った事ではないが、しかし批判の際にはこの要素によくよく自覚的であるべきではないか、と考えている。

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しかし、広く世間を見渡すと、私のような考え方はどうも少数派らしい。

あるものを「批判」するときに、その批判対象と自分との間に距離を置く、客観性を保つということは、あるいは必要かもしれないが、批判対象と自分を完全に切り離してしまい、自分は批判対象のやっているようなことはやっていないので批判できる、かのような態度をしばしば見る。

こういう態度になると、「自分は正義」「自分がやっているのは悪の糾弾」という極めて分かりやすい構図でしか批判は成立していない。

たとえば、「原発事故における政府と東京電力はなんだ」という。確かにその通りである。

しかしながら、原発事故にまつわる「批判」において私がしばしば不満を感じたのは、「その電気を使ったのは、いったい誰だと思っているのか」「その電気に支えられた経済的繁栄や現代的文明を享受してきたのは、いったい誰だと思っているのか」、そしてこうも思った。

「確かに私たちは大きな罪を背負っただろう。しかし、この罪からは絶対に逃れられない、逃れようとしても逃れられないし、これからもその罪を背負い続けるし、罪を犯し続けるのである。そこから逃れようとすることは、単なる偽善だ」

ということである。

それはつまり、批判が自分に返ってくることが完全に閑却されていることに対する不満と言ってよい。

しかし、今書いたような批判が出来るのは、私が批判対象と異なるから分かる、ということは否定できない。ネットスラングでしばしば「お前が言うな」というフレーズを目にするが、それは「お前が言うな」と言っている人がそばで見ているからそう言いたくなるのであって、では自分が行う「批判」についてはどうかとなると、きっと「お前が言うな」という人も「お前が言うな」ということを言っているだろうと思う。

こういったことは、政治的な党派を問わない。右でも左でも、「批判」と称してなされるものは、その批判の矛先が同時に自分に向いていることに無自覚であるということが、非常に多いように見える。

では、自分の行う批判が自分にも向かっているということに無自覚であって、何が問題なのだろうか。

しかし、この「何が問題なのか」と問うこと、これが問題であるということが分からないあたりが問題なんだろう。

頭が悪い、と言ってもいいのかもしれないが、私であれば「恥知らず」と言うだろう。そして、世間ではこの種の「恥知らず」が賢しらを(とりわけネット上で)どれだけ振り回しているか。