扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part8

もう、リフレ派どうこうの次元じゃなくなってる気がするけれども、「実はネオリベだった」という線とは別にもっとイメージだけでいうと、リフレ政策はもうちょっと優しいイメージがあるんだと思う。それに対して「構造改革」とか「財政再建」とか言い出すと厳しいイメージ。


銅鑼衣紋さんが、
http://anond.hatelabo.jp/20100820200245

つうかねぇ、リフレ政策を構造改革やら清算主義などが猖獗を極める中で提唱した
理由は、感情やイデオロギーによって盲目になることへの警告だったわけよ。

と言うのもそのイメージの線にあるんでしょう。


ところが、リフレ派は結局「感情やイデオロギーによって盲目」という、、、つまりこのブログ流に言えば、ネット○○派が溺れる「自分たちは正しい」によって盲目になってしまったところが皮肉で、リフレ派が批判していた批判対象そのものになってしまった観がある。


こと、ここに至ると、いわゆる「財政再建派」にしろ「リフレ派」にしろ、「自分たちは正しい」という信念のぶつかり合いにしかならないわけで、どちらが正しい間違いの議論に結局ならない。したがって政治問題だ、政治権力の問題だ云々というのはここでは置いておいて。


皮肉というのはつまり、「自分たちは正しい」という過剰な信念を批判していたはずの人たちが、いよいよ「自分たちは正しい」という信念に目を曇らされていってるんだけれども、それが、そのことが、相当知性的な人でも分かってないというのが、何ともな感じがするわけだ。