ネット○○派 part249 ネット○○派の意識のありようと必要な余裕

別の某所をチラチラ見てて思ったんですが。


もう何度も繰り返し書いていますが、ニセ科学批判の最大の問題は、科学の問題と世間の道徳と二股がけすることで、絶対に負けない立場を構築しちゃったところに問題があって、かつ錯覚の源になっています。ホメオパシー批判はその好例でありました。


手短にまとめておくと、科学としての間違いと、「詐欺はよくない」「人が死ぬ」の世間の道徳と二重に正当化しうる形になっていて、どうやっても自分が正しいという立場を作り上げてしまった。錯覚というのは、実はそうまでして構築した「正しい」立場の問題や、科学の領域を安易に乗り越えてしまうことの危うさに対する無自覚などについて。


逆に言ってしまうと、ようはホメオパシー叩けりゃなんでもよい、自分たちがひどいと認定する「ニセ科学」を叩けりゃそれでいいというのが、その時点でばれてしまっているんです。


しかも、皮肉なことに、現在の様な状況では、科学的に正しいことと政治的・社会的に正しいことのズレを日々垣間見るような状況なわけで、まあ、いかにニセ科学批判のホメオパシー叩きが安直極まりないものだったかがよく分かるわけです。


ただ、地震後の物理クラスタの活躍ぶりは今さら言うに及ばぬところだし、僕も当然読ませてもらっていたのでそれはそれでよろしいのです。感謝しています。例の「放射性物質差別」ネタでまた安直な反応してたあたりは、あーまたやってる、と思いましたがね。


ただここで問題なのは、そういう「自分は正しい」意識です。

ところで、デマの問題というのがありまして、大震災後のネットでも非常に多く見られたことは間違いない。そこでいわゆる「安全デマ」みたいな言い草まで登場して。。。まあ、ひどいですよ。こまごましたのはまとめるの面倒なのでやらないけれど。


で、近頃問題になったのは、3月11日の原発事故当初「メルトダウンは起こらない」「メルトダウンはデマだ」とネット上ではかなり言われていたにもかかわらず、実はメルトダウンが起こっていたというわけで、じゃあこれをどう理解すればよいかという問題があります。


そもそも論を言えば、「メルトダウン」という単語そのものの定義が非常に曖昧で、危機的な重大な状況だからこそ言葉は厳密であったほうがよいと考えるならば、避けたほうがよい言葉の一つだったし(実際にその筋の人はあまり使わないようですが)、また各人がいろんな意味で使っていたので混乱したわけです。


とはいえ、他方で「メルトダウンはデマだ」と攻撃しておきながら、実は「メルトダウンは起こらない」といういわば「デマ」を信じていたわけで、変な話だなとなるわけです。


これはいろいろ分けて考えたほうがよいと思っています。


ごく一般論として言えば、ネットのある情報が本当に正しい・間違いかどうかを確認する方法はない、あるいは非常に難しいので、そこに隙が出てきてしまう。つまり、自分が信じたいものを信じるというのはこれで、そういうことになりやすい環境にある。


そして、「これが正しい」という確実な担保がないにもかからず、「これが正しい」と信じてしまい、「デマは許せない」となるわけで、大震災時のような緊急事態にはそういう現象が明確に出てくるし、またそれも人間だというか、そういうことになるのも理解しやすいわけです。


そこで、「メルトダウンは起こらない」という情報は、二つの側面があるように僕は思います。一つは単純に科学の話としての側面で、これは端的に間違っているし、間違っていた。当時から炉心は溶融してるという単純な意味で「メルトダウン」を指摘する人はネット上にも少なからずいた。


もう一つは、その上でやはり数あるネットの情報のひとつにすぎないという側面で、そこに「自分が信じたいものを信じる」という隙が生まれる余地があった。


あえて「メルトダウンは起きない」ということの政治的な意味合いとかあると思うし、それはそれで別の大問題だから脇においておくとして、問題はなんでそこまで「正しい」と信じこめて、「デマはよくない」に突っ走れたか。反省するとすればそこでしょうね。たいていの人は原子力とか素人に決まってるんだから、そこまで断定できるはずがないんです。


つまり、その情報が本当に「デマ」かどうかってのは、大して意味がなくなっちゃうんですよね。実際「デマ」だと排撃していた人が「デマ」を流していたのかもしれないわけで。


そこで浮かび上がってくるものって、結局いつもかいている「自分は正しい」「間違っているこいつはけしからん」というネット民の意識そのものなのであって、扱っているものが本当に「正しい」か「デマ」なのかというのは、あまり関係がないんだろうと。「メルトダウンは起こらない」の場合、たまたま「デマ」だといってた側が実は「デマ」だったというに過ぎないのでね。


もうちょっというと、ここまで来ると、「正しい」とか「間違い」「デマ」と断ずる根拠って、その人の心理とか好みとか「信じたいものを信じる」という極めて主観的・心理的なものに依存してしまってることが、いつもより余計にはっきり明白になったわけです。そうなると、「安全デマ」みたいな言い方をして煽ってる側だって自分たちが正しいと信じているわけで、本当は両者ともども同類なんだろうと思うんですよ。


では、ネットである情報が正しいとかなんとかって本当に「信じる」しかなくなってしまいかねないのであって、今ネットで見られることって、違うものを「信じている」グループがまとまって、なんかあれこれ言ってるだけで、信念と信念のぶつかりあいにしかおそらくならない。事実の検証とかではなくて。


・・・いや、僕は、「デマはそのまま放置しろ」みたいなことを言いたいんじゃないですよ。でなけりゃ、ニセ科学批判も科学の範囲内にとどめてものを言ってりゃいいのにとか書かないし、東京都の条例反対派が流していた「デマ」を問題視するはずがない。


ではなくて、ここで浮かび上がってくるネット民の意識のありようが、ニセ科学批判にも通じるし、リフレ派も同じだろうし、その他のネット○○派にもいえて、そしてたまたま「メルトダウンは起こらない」の話にも言えるのだろうなと思うわけです。

よく、ネット上の「デマ」や「誤った情報」そのものを問題視して、それを「指摘して正す」ことの何が悪いのかといいます。それそのものは全くその通りなんだけれども、でもそれだけでは議論が不十分で、一歩引いてみたほうがいいんだろうと思う。現に「正し」ているつもりが、間違ってたりするわけで、どっかに余裕というかな、たとえホメオパシー相手であってもそういう余裕というものは大事だろうと思うんで、いや、それが自由な社会とかいうものなんじゃないんですか。