ネット○○派 part130 ニセ科学批判はただの通俗道徳主義か

ニセ科学批判者(通俗道徳主義者)はマイケル・サンデルの正義を学ぶべし : 社会学玄論

 ニセ科学批判者がニセ科学批判する正当性の根拠は、科学的事実にあるのではなく、最近、世間の通俗道徳にあることがわかってきた。これは、ニセ科学批判批判派の一部のブロガーのうちでは常識となっている。
 つまり、「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」と言った通俗道徳に最終的な自説の正当性の根拠があるようである

このブログではかなり初期からこれに近いことを言ってきたつもり。たとえばこれ。
社会規範の件について - 今日の雑談

ニセ科学批判を正当化するのに社会規範を持ち出す理屈とかって、こんなのを信じるニセ科学批判の人たちの論理性っていったい何なんだと思うんですよ。この自己正当化のための論理っていったいなにって。


社会規範論って一般にはつまり、ニセ科学なりそれに基づく詐欺商法ってのはけしからんものだ、社会規範に反する、社会規範に反するものを(一社会人として)批判して何が悪いんだ、という理解でいいんでしょう、たぶん。


これが問題なのは、社会規範とニセ科学批判を行う自分たちの行動をダイレクトに結び付けて正当化してることじゃないですかね。

「詐欺はけしからん」「ウソはけしからん」そりゃけしからんですよ。


では、けしからんからと言って、どういう形で現実に反映させて行動発言するべきかというとそれはまた別の話で、けしからん=否定排除には一直線にはならない。


ニセ科学批判はここの理屈が分かってない。あっけらかんと世間の道徳を信じて「ウソは悪いじゃないか」「間違いを間違いと言って何が悪い」と開きなおるしかなくなっている。


で、問題は世間の道徳に、科学的正誤を重ね合わせてるところなんでね。ホメオパシーは科学的に根拠がない、否定されている。人が死ぬ。けしからんじゃないかと、もう疑問なく一直線に突っ走れてしまう。そういう理屈になっている。


だから、ただ「通俗道徳」に頼っていることだけが問題じゃないんです。通俗道徳として正しい立場に身をおきながら、科学としても正しい立場において、絶対に負けないポジションをとる。それがいわゆる「態度の問題」として現れたり、はてブやコメント欄、いまならTwitterで議論をふっかけたり、という形で現れてくるということなんです。


さらに、

 安易な通俗道徳に基づく価値判断に正当性の根拠を求めず、科学のアイデンティティを穢すから科学的に中途半端な知識を批判するという純粋な科学原理主義に立脚したニセ科学批判者のほうがまだ筋が通っているのである。そういう正当派をみかけなくなった。大槻教授くらいである。菊池氏は通俗道徳主義者である。

菊池先生やニセ科学批判を主導する人たちを「通俗道徳主義者」呼ばわりするのはちょっとかわいそうだと思うんですよ。


というのも、おそらくこういうポジションをとらざるをえなくなった背景には、日本では海外のようなSkepticたちやその団体が成立しうる土壌がないというのがあるはずなんです。合理主義を信奉してもでかい攻撃対象があまりないので(あるとすれば、葬式仏教と天皇制)、がんばり甲斐がない。


だから、本当に海外のSkepticの真似をすると、日本では広い支持はまず得られない。そこまで合理主義が大事だと思っている日本人って、まずいませんからね。葬式仏教を否定して、天皇制も一刀両断するとすれば、上岡龍太郎みたいなタイプをイメージしなくちゃならない。ま、あんな日本人ってそうそういません。


そこで、「通俗道徳」を持ち出して一般を説得するしか手がなくなるんです。「ホメオパシー、科学的に否定されている上に、人を殺しかねません」とか「血液型性格判断は差別だ!」という。「通俗道徳」や「有害性」が強調されると、一般ものりやすい。


ホメオパシー批判に典型的に見られる、ニセ科学批判の「科学としての正誤」と「世間の道徳としての正誤」の二重性は、日本で擬似科学批判をやろうと思ったら必然的にそうならざるをえない、みたいな部分があって、仕方ないんだと思います。


だから、たとえば上のエントリのようなホメオパシー批判というのは、擬似科学批判の日本的受容だと考えたほうがよいのでは、と疑っています。


またこの種の、広い支持を得るための妥協は、ホメオパシーと漢方・鍼、ゲーム脳脳トレの扱いの差にも顕著に見られるところであって、特に後者は「優先順位問題」の一言で放り投げられてる。すごくずるい。


・・・で最近の僕の関心は、なんでオタクがなんちゃって懐疑主義に染まって、ニセ科学批判を支持するか。オタクの心性と、右翼の天羽先生や左翼の先生連中の心性と、どう共鳴しているのかがよく分からない。


ということなんだが、それは置いておいて、ニセ科学批判を単純に「通俗道徳主義」と言ってしまうと、そうじゃないというか、それだけでは足りない、と思います。