ネット○○派 part91 何のためにニセ科学批判やってるのかちゃんと言うてみ

某所を見ていてちょっと思ったのと、山形浩生の議論も文脈がアレだから、何度でも書こうと思う。


ニセ科学批判はただの消費者運動じゃないかと(当て付けと皮肉で)このところあたしゃ言っていて、実際ホメオパシーネタではそうなんだけど、それだけかというとそうではないのでね。


水伝ネタは、まあ間接的にはともかく、小学校の道徳で水伝をネタにしてましたってのは消費者問題にならない。血液型性格判断も、とりわけ消費者問題のネタになるというものではありませんわな。ゲーム脳もそれ自体は消費者問題にはならない。むしろ、脳トレのほうがそう。


で。


そこで問題になるのが、じゃ、何のためにニセ科学批判やってるの?という毎度の疑問が出てこざるを得んわけだ。


消費者問題なら、ゲーム脳じゃなくて脳トレのほうが問題。道徳のネタとしての水伝も血液型性格判断消費者問題にならないなら、さして大きな問題でない(そもそも水伝なんて知ってる日本人がたいしていない)。


だけど、「ニセ科学は社会の病理」とするならば、不合理を正して合理主義を普及したいのだから、血液型性格判断も水伝も、どちらも問題。


ニセ科学批判は常にこの両方向があって、それはたぶん最初からそうなんだと思う。たとえば血液型性格判断は「差別」だとして有害性を強調して正当化を図るのは、ホメオパシーの「有害性」を強調して自己正当化を図ってるのと同じで、ようはこの二つの方向性のどちらに重点がありそうかという問題に過ぎない。


ホメオパシーは、不合理かつ「ニセ科学」なので「社会の病理」であると同時に、もう十分に消費者問題のネタになりえる。ネタとして最強。


ただし、「有害性」を強調しすぎるあまり、ついに消費者問題化しすぎてしまって、漢方や鍼の問題とバランスが取れなくなってしまった。しかも、こればっかりは伝家の宝刀「優先順位問題」で逃げ切ることができない。なぜならば、「優先順位問題」と言った瞬間に、漢方・鍼もホメオパシーと同列に扱わざるを得なくなるから。


そこのところでやっぱり山形浩生もごっちゃになっていて、ああいう物言いができるのは「ニセ科学は社会の病理」流の「合理主義はいいことだ」の単純素朴な立場に立っているのでわざわざアフリカの伝統医療部の話をネタに持ってこれる。たぶん、そこから先の問題は全く考えてないな。ニセ科学批判をやってるつもりじゃないんだろうから、まあいいんだけど。


漢方や鍼に口を緘せざるをえないのであれば、結局消費者問題の立場しかなくなるので、ニセ科学批判にあった二つの方向性は見事に瓦解し、「ニセ科学は社会の病理」ってのはなんだったの、科学がどうのこうのという話はありゃなんだったのということになる。


情報学ブログで以前、こういう一節があったのを覚えているが、、、
社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠 : 情報学ブログ

たしかに、大槻義彦あたりは、この一線を越えている面があり、そのためにニセ科学批判が低レベルのものだと見られていた時代もありました。しかし、菊池誠氏がこの点に関して根本的に間違っているとは思いません。過去の発言の中に「一線を越えてしまった」ものがあるという批判もあるようですが、少なくとも大部分はそうではないと思います。菊池氏がフォロワーを増やしているのは、このあたりの「謙虚さ」によるものだと理解しています。

の「一線を越え」たのはたぶん、スピリチュアル批判あたり周辺のことをさしてるんじゃないかと思うけれど、本当はSkepticismの一つとしての擬似科学批判をやるなら、擬似科学批判の別枠としてスピリチュアル批判・オカルト批判をやるのはむしろ当然のことなのであって、実は一線は全く越えてないと見るべきだ(ただし、ニセ科学批判の場合はあくまでも建前としてその線を越えてないようにして一定の相対性を担保しているように見せかけているのだけど、かえってそのためにダブスタを生んでいるということは常々書いている)。そうすることではじめて「ニセ科学は社会の病理」という立場に説得力と一貫性が生まれて、そこから宗教批判までやるのが当然の道筋になる。天皇制批判までやれとは、僕は優しいのでとりあえず言わないけれど。


だって、横文字のいわゆる一つの Skepticism って基本的にそういうもんでしょ。日本語の懐疑主義ってあんま色が見えないけど、横文字になると色がしっかりついちゃってる言葉だから、もうどうにもなんないよ。


Skepticismとしての立場を徹底させるなら、ホメオパシー叩くと同時に漢方も鍼も叩け。「ニセ科学は社会の病理」というなら、率直に葬式仏教も叩け。他方で漢方・鍼は認めて消費者運動になるなら、科学がどうのといちいちお説教せずに、自分たちがやってるのは単なる消費者運動だと自称しろ。


このジレンマをどう収めるのかってのが、シノドスの菊池先生のエッセーの眼目なんだけど、まだ続きがないんだよねー。書けないんだと思うよ、そりゃ。


しかも。二股をかけてるので、将来「水伝・血液型性格判断」タイプのネタがあればそっちの方向にどっと行ける形になってる。そこでまた支持者を増やせるかもしれませんしね。ちょっと、こういうの、都合よすぎ。というより、一般ピープルを愚弄しとるだろう、これ。