ネット○○派 part70

徳保隆夫さんが血液型性格判断の話をアップしておられてね。
「血液型性格分類」と「郷土性」
その前に

2chの反応を見ると、科学を装って消費者の信頼を得る詐欺的な手法について、直感的に嫌悪感を覚える人が予想以上に少ないようだ。
「楽しければいい」なんてことはない

そうだと思う。今のご時勢、何らかの形で「科学を装う」ことは、ある意味必須で、みんなそれに慣れている。問題が引き起こされたことの一因が科学を装っていることだというそれ自体はあまり重要でないと思われているかもしれないというのは、十分に理解できる。


徳保さんはABO FANさんの記事を引いておられるが、僕は面倒なので読んでない。で、ここから郷土性との比較の話に。

そこで繰り返し引き合いに出されているのが「郷土性」の研究だ。どういうことか? 生育環境の性格への影響を「悪」としないならば、例えば大阪で生まれ育った人が「大阪人らしい性格になる」ことが人間性の毀損といった「悪」ではないならば、血液型性格分類が広まった社会で生まれ育った人が「血液型性格類型に沿った性格になる」ことを「悪」とみなす根拠は何か、ということだ。

なぜ「郷土性」はよくて、「血液型」はダメなのか。どちらも子どもが自分で選ぶことのできないものではないか。

この「ダメ」とか「悪」という評価を下している時点で、単なる「科学の問題」を超えてしまっているのだが、それをニセ科学批判派は理解できてない。単に「科学的誤りを正してるだけ」だと信じ込んでる。したがって、たとえばニセ科学批判の素朴な支持者たちは、血液型は科学を装っているが、郷土性はそうではないと言いそうだけど、そうは問屋がおろさない。菊池誠先生はこう言っているから。
kikulog

オーラの泉」はニセ科学じゃないだろう、という意見を書く人もいそうなので、あらかじめ言っておくと、「ニセ科学しか批判しない」わけではありませんから。

合理主義者懐疑主義者の立場を強調してる。では、郷土性による偏見は不合理ではないか。この偏見に基づく差別はないか。血液型性格判断と同様、募集すればこの手の差別は見つかるに違いない。


不合理を正して合理主義を普及せしめんとするなら、血液型性格判断だけではなく、郷土性による偏見も同時に批判するべきなのかもしれないね。(外国のSkepticsが郷土性による偏見を正してるのかどうか、僕は知らないけれど)

しかしそれは「郷土性」という怪物が闊歩する社会に馴らされてしまっただけではないのか。

懐疑主義って、本当はその「馴れ」を叩き潰すものだと思う。。。

逆に、それを原理的に否定しないなら、「血液型性格分類」と「郷土性」への対応の差は、それぞれの仮説の説明力の差だけに支えられているのではないか。となると、そのボーダーはもはや……。

つまり、ニセ科学批判の批判対象は「真っ黒に限り」と言われているけれど、でもそれが本当に「真っ黒」かどうかは、かなり主観的な部分がありそうだってことか。


ようは批判対象を選択する際の恣意性の問題。その恣意性は、本来はそれを選択する者の思想を表現するはずであるけれど、ニセ科学批判は「優先順位問題」としてこの問題を退ける。


では、ホメオパシーを批判して、漢方・鍼灸を是認するって、合理主義者懐疑主義者であるニセ科学批判の立場としてどういう申し開きができるかというと、できてない。最後は、「ホメオパシーだけはとにかくダメだ、いくらなんでもダメだ」の一点張り。ここで、懐疑主義としては話が終わってる。


理屈が破綻してるから、この先は単に信念の問題になってネット右翼化。子供が死ぬ人が死ぬと倫理的な踏み絵で脅迫するしか手がなくなる。そして、「自分たちは正しいんだ」「自分たちに疑問を投げかける人間はバカだ」ゲームを繰り返すだけに。。。