ネット○○派 part3

国籍法改正から一年半以上たつが、日本はまだ終わってない。そんなことは最初から分かっていた。だけどネット右翼たちはあんな騒ぎ方をした。


かつての人権擁護法案反対運動もそうで、(ネット)右翼の間では人権擁護法案の問題点とやらはもう完全に定着しているらしい。でももし人権擁護法が将来できたら、やっぱり日本は終わらないと思う。左側だと、東京都の条例改正ネタも同じことだろうな。などなど。


もっとも政治ネタの場合、その筋の「お偉いさん」たちも、本当に重要な問題では騒げないだろう。どうでもいいネタだからこそ、支持者固めにピッタリだということなんだと思う。


一応ネットに限ると、こういう○○(反対)運動はえてしてネタを針小棒大に扱って大騒ぎすることを旨とする。わずかな「危険性」を大きく見積もることで、煽りに煽る。最後には「普通の人にも分かる言葉で法律を書けという当たり前のことを言っているだけだ」(それ、当たり前じゃないから)とか、「わずかでもそういう可能性があるというのはよくない、恣意的な解釈はできないようにするべきだ」(なら、「曖昧」に書かれている他の法律との整合性はどうなんの?)とか。言っていることが、わずかなリスクでもそれを指摘して、それを問題だと言っている自分たちは正しいということでしかなくなる。


そういうことになるのは、単に自分の主張を正当化させたいがためだけだ。批判が利かないのではなくて、批判をすべて論破しようとするほどに自分の主張の正当性を信じている。問題は理屈ではなくて、ある主張の正当性に関する信念のほうだ。


ネットの場合、「公開タコ壺」になりやすい。同じ信念の持ち主ばかり集まって、異なる意見の持ち主は「空気嫁」と排除されるか、「空気を読んで」タッチしない。そこでは、ある主張が正しいという同じ信念を持つ人間たちが集まり、あらゆる批判は必ず誰かが「論破」し「フルボッコ」にしてくれるので、信念を共有していさえすれば、あとはその信念が強化されるだけだ。かくして「公開タコ壺」によって、程度に差はあれ論理的に正当化された信念の集団が完成する。


こういう、ネットであれこれ言ってるうちに、どんどん意見が過激になってくるという現象は、常にみられるものだと思う。


この信念の集団に対抗するに現実をもってするのが最大の批判だ。国籍法改正して、日本は終わったんだろうか。ダウンロード規制でネット世界は終わったか。奈良の児童ポルノ規制のために奈良のお父さんお母さんたちはみな一様に往生したのか。現実そのものが、信念に対する批判になってる。


つまり、現実を対抗させることによって、信念に一定の歯止めをかけることができる。信念から一歩離れることができれば、批判もそれなりに受け入れることができるだろう、あるいは信念に疑問をもって自分なりに考えるようにもなるだろう。


その代わり、信念を共有しない人間は、敵である。あらゆる批判を論破してきた信念に疑問を述べる行為は、すでに「利敵行為」である。つまり、その人が「フルボッコ」されねばならない。


・・・ずいぶんブログやネットを眺めていて、思うところはこういうことなんだけども、懲りてない人が多すぎるように見えるのはなぜなのだろうか。