遠大な話

「インテリは左たらざるをえない」 - 国家鮟鱇

つまり、「反体制即カッコイイ」ではなくて「理性的でないものは許せない」という感覚ですね。

分かりました。実はそこの部分は僕は逃げてます。啓蒙主義に始まって、フランス革命や48年の革命を経由して、みたいな話になると思ったから。遠大すぎる。


で、ニセ科学批判に絡めるなら、外国のSkepticたちって基本的におっしゃってるような感覚が基盤にあるんです。だから、単に科学分野に限定してニセ科学を批判するのでなくて、UFO批判やオカルト批判、キリスト教批判までやる。立場として非常に分かりやすい。(日本のニセ科学批判はそこが不徹底・中途半端だから、外国の「疑似科学批判」や横文字の「懐疑主義」とは少し違うものになってしまってるように僕は思う)


他方で、たとえば左翼の言論人が元気だった時代に「科学的」という日本語がどういう使われ方をされていたかと思い出せば、価値中立的とかなんとかではなくて、非常に政治的な使われ方「も」されていたし、その根底には「『理性的でないものは許せない』という感覚」があったはずだ。政治的意図込みで。


そう考えると、外国の疑似科学批判の日本版であるニセ科学批判と左派の思考傾向が重なり合っても、そんな不自然ではないんですよねえ。ある一面として。


そこで次に問題になるのは「理性的であるべきはずの人が『理性的でないものは許せない』という強い信念と確信を抱いてしまうのは、実はとっても非理性的なんじゃないの?」という疑問で、ドラッカーの引用部分でも「教義」や「絶対真理」という言葉が使われているように、その信念と確信は非常に宗教的なものかもしれない。


たとえばフランス革命のころの歴史とか読み物とか見ると、もうついていけないものを感じるわけです。フランスの隣国の若者たち(インテリの卵)なんてまずもんのすごい熱狂があって、それで高歌放吟する。そういう熱い空気を前提にして理性だのなんだの言ってるのが最初にあったことを忘れると、なんで「理性的でないものは許せない」という話になるのか、たぶん分からなくなるんだろうと思う。


ちなみに、似たようなことは外国の疑似科学批判批判でも言われていて、「疑似科学批判ではしばしば宗教用語が使われる」という批判があったと記憶します。ただし、日本のニセ科学批判はこの辺を慎重に回避したがってるわけで、これは認めなければならない。でも回避できないんだな、もとは疑似科学批判だから。あるいは、回避すると中途半端になって、単なる消費者問題にしかならなくなってしまう。


それはさておき、もうちょっと言うとサヨクはウヨクをバカにするけど、でもサヨクはウヨクのことを本当に笑えるのかなあ??ということで、同じ穴のムジナになるんだろうと僕は思う。左翼の「理性主義」って実は理性的なのかどうか怪しいわけで。


ただ、そこで終わると単なるねらーのネットヲチになるので、最終的にはどちらかを選ばなければならないんだけれども。まあ、遠大な話ですよね、これ。