長い返答

いや、そうなんですよ。
「正しい」という言葉の意味が錯綜している: あぶすとらくつ

 科学が正義になり易いなどという話はあまり聞いたことがありません。

このへんは、「本当に科学を理解している人は『まともな相対主義』をわきまえているものだ、だから心配に及ばない」という話につながりそうですな。おそらくニセ科学批判の人たちだけで議論すると、当たり前すぎて簡単にスルーされると思います。でも、本当にどこまでわきまえられているのか、僕には非常に疑問なんです。


たとえば天羽先生は、ホメオパシーを信じるバカはいっそインフルエンザで「駆除」されてしまえばいいのにと言ってしまう(http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20090511/p1#c1242058268)。不謹慎な発想だと自分でおっしゃってるけど、ただのもののいいようだとはいえ、普通は「駆除」なんて言葉は使わない。ネット右翼でも言いません、そんなことは。でも、「駆除」という言葉の選択に本音が出てしまっている。


それでもお仲間内では、科学絶対主義なんぞ誰も言ってないというのだろうし、みんながみんな天羽先生みたいだとも思わないけれど、しかしふとした時に本音が出る。最近の地下猫さんのホメオパシーは○○だってエントリも、罵倒芸としてはともかく、それ以上のものになってないんだけど、たぶんその自覚がないですよね。書く方も、読む方も。


自分たちは正しいと思うのはいい。誰だって自分は正しいと思うから何か発言する。問題は、自分たちは正しいと考えた上で、実際にどう行動するのか。あるいは、正しいと思ってそこで考えが止まってませんか。

 「(科学的に)正しいから何を言ってもいい」と思っている人って、もしかしたら非科学を批判している人なのでは。

僕は、天羽先生こそ自分の正しさに酔ってるんじゃないかとにらんでいます。「駆除」という言葉一つとってもそうだし、ほかにちょいちょい書いた。そして、ニセ科学批判の人にとって、天羽先生は特別なんですよね。あの人はまともだと無邪気に信じている。

 「ニセ科学批判は、“こんなもんにだまされやがってバカじゃねーの”的優越感の表れである」、みたいな例の話について。(略)
 apjさんは、言葉はきついけど、ニセ科学にだまされている人そのものを見下したり、その人格を否定したりする発言をされたことはないはず。apjさんの批判の対象は、ニセ科学を悪用して他人に損害を与える人たちである、と私は理解している。
 そもそも、ニセ科学的なものを信じ切っている人を「逆洗脳」するなんて無理、やりたくない、という立場の方だ。だから、apjさんは除外される。(ニセ科学以外の言論については、ここではおく)

「ニセ科学批判は、“こんなもんにだまされやがってバカじゃねーの”的優越感... - ぱれあな - ぱれあな - はてなハイク

なにより「“こんなもんにだまされやがってバカじゃねーの”的優越感の表れ」として「駆除」という言葉を読まなかったら、他にどういう読み方があるのかと思うんだけど、大して問題にならない。これがだいたいおかしいんです。


それに、僕が見る限り、天羽先生の右翼ぶりと「駆除」と書いてしまうニセ科学批判の調子とは相通ずるものがあるんですけど、ニセ科学批判の人はそうは見ずに擁護する。なにより「ここではおく」でかたづくと信じてるのが、あまりにもおかしい。


そこに相通じてるものがあるんだという点については、前に書いたし、これが分からんかとしか言いようがない。同じことは、お花畑な平和運動の肩を持つ菊池先生にも言えて、政治的なものの考え方がこういうことに反映してるのです。もう細かいことは省略しますけど。そもそも人間のことですから、人間のやることですから、あれとこれとは違う話だとは分けられない。国籍法の話で天羽先生が間違えたとき、専門外だから仕方がないよなって堂々とコメントした人たち、僕は絶対に許容することができません。専門外だから間違えても仕方がないなら、トンデモを煽る人、引っかかる人に専門の人がどれだけいるのかと。


だから、批判対象を限定しろという趣旨は分かるけど、こういう人たちがもう変なんだから、その他大勢のほとんどもどうにもならんだろうというのが率直なところ。まともな人たちは、呆れてニセ科学批判なんて見限ってるはずです。


で、価値判断の話。

例えばニセ科学関連商品を販売している企業を批判するとき、それは要するに「効果の無い商品をあたかも効果があるかのように販売している」コトを問題にしているわけです。そして、「効果の無い商品を効果があるかのように販売する行為」を批判することは、「正しい」と、私は思っています。私は「正義」という言葉には違和感を感じますが,まあこれを「正義」と表現してもおかしくはないでしょう。
 でもこれって「科学的な正しさ」ではないですよね? 敢えて言うなら「社会的な正しさ」でしょうか。

 
 ニセ科学批判である以上、対象が「科学的に正しくない」コトはもちろん前提になっているのですが、批判のポイントはそこではないってこと、そんなに分かりづらいかなあ。

おっしゃることは分かるし、ここはきちんと切り分けておかなければならないところなんですが、いくつか言いたいことがある。


一つは、ニセ科学批判の人と議論していると、必ずしもニセ科学関連商品にまつわる詐欺めいた商法だけが対象ではないんです。ニセ科学批判の目的はもともと科学の手続きにかかわることなんだと僕は言われた。そういうことなら、「社会的な正しさ」云々はまったく関係のない話になる。じゃ目的って何なんだと。菊池先生なんか、ニセ科学や迷信俗説が蔓延するのはなんでかというところまで問題意識があるし。


ニセ科学批判の人たちと議論ができないって、こういうこと。人によって考えてることがあまりにも違い過ぎる。


二つ目。「効果のない商品を効果があるかのように販売する行為」をやり玉に挙げることは、本当に科学として扱うべき問題なのかという疑問。たしかに、この商品は効果がない宣伝が過剰ではないかと検証するのは科学の範疇でしょうが、そこからさきは行政なり法律の話になる話が大半だと思うんですよね。


なら、そのつもりで活動すりゃいいのに、でも、全然そうじゃない。(ちょっとフォローすると、天羽先生はその点は偉いと思いますよ。やるならとことんやる。時間も金も使う。だけど、ほかの人たちはそこまでの覚悟はないし、だいたい天羽先生を支えてる情熱ってのが、まあ、そういうことでかなり過激だろうから、ほかの人はせいぜいネットでおべんちゃらは言えても、リアルではだれもついて行けないに決まっています)


逆にいえば、自然科学者が学問として取り上げるならまだしも、それ以上の範疇にいくならば、その一線を越えている自覚はどこまであるんですかということでもある。この辺が曖昧なんです。

ニセ科学批判には価値判断が必要です。

問題は、ここなんですよ。たしかに詐欺めいた商法をしてるのはけしからんだろう。だけど、一定の価値判断と科学という体裁が一緒になると、錯覚しやすい。そこを僕は「正義」と言い、あるいは正義になりやすいと言う(科学だけじゃなくて、合理性とか論理性とかそういうもので体裁を覆ってやっても話は同じなのですが、これも今は省略。ネットでは引っ掛かってる人が結構います)。そこのところの区別が非常に曖昧だから、だから「まともな相対主義」といっても説得力がないことが多い。


だいたい、そもそも論で言いますけど、その価値判断の根拠は何なのです?ってところからはじまっちゃう。


たとえば「差別」の件ですけど、ニセ科学批判が血液型性格判断でいうときの「差別」ってどういう意味なんですか?B型は○○だ、A型は××だっていう、一種の「偏見」のことか、あるいは就職や結婚のような実害を伴う「差別」なのか。


「偏見」のことなら、「偏見」自体はいいことではないけど、偏見の塊みたいな人は普通にいるし、それは僕も貴方もみな偏見の塊だ。なにも血液型に限ったことじゃない。お互いに偏見なく人と接しましょうといいながら、偏見まみれのまま死ぬまで生きる。それはそういうもの。陰口はだれだって叩くし。それがA型かB型かO型かAB型か、ブスか、ファッションセンスがないかあるいは云々。偏見レベルならいちいち批判する必要はないです。


実害を伴う「差別」のことなら、それは悪いことだから、できるだけそういう「差別」はなくしていかなければならない。だけど、実際のところそういう就職差別や結婚差別はどの程度深刻なんでしょうか。もちろん、例が少ないからといって認められることではないけれど、人種差別部落差別や性差別と比較しても見劣りしない、深刻な差別だと言えるのか。たぶん、言えません。問題にするなら実態に対応した扱いをしなきゃいけないけど、ニセ科学批判ではそういう論じられ方はまずされません。血液型による「差別」はいかんことだ、で、たいていは終わってしまう。


血液型性格判断の話も「差別」と絡めて論じ出したとたんに、こんなふうに疑問が絶えないんです。「差別」という言葉一つとったって、いい加減に扱われてしまう。体裁そのものは科学ですからね、説得力があるような気がするんですよ。。。って、このあたりから構図がニセ科学に似てくる。


もっというと、仮に科学的な正しさは関係ないなら、そういうことならなにも科学と絡めて論じる必要がない。理由がいかなるものであれ、「差別」はいけません、で必要十分なのだもの。血液型性格判断なら、なんでいちいちリキをいれてニセ科学だのなんだの言わなきゃならないんですか。話が通じないアホはほっとく方針なら、力をいれなくても普通はみんな自覚してます。


ニセ科学関連の商売でも同じです。それは怪しからんことには違いないけど、じゃ、どの程度深刻な問題か、どう対応すべきなのかと考えていったら、ニセ科学批判って範疇は超えた話になってしまう。


じゃ、なんで価値判断が絡むのかというと、結局、ニセ科学批判を自己正当化させるため、でしかないんですよ。そう考える以外に、なんでわざわざ価値判断を入れていくのか、ほかに理由がない。血液型性格判断で「差別」というのがいい例で、実際のところは「偏見」レベルの話がほとんどなのに「差別」ということで問題を深刻にして見せて、そうやって正当化させてます。


そうやってエスカレートしているうちに、「科学的正しさ」と「社会的正しさ」を混同しやすくなって、それが正義になるし、実際に正義になってる。ブコメ見たってそういう人が多いじゃありませんか。(体裁は科学だけでなくて、合理性とか論理性とかでも引っかかる人が結構いるようだけど、今はそれは置いておいて)


そこのごちゃごちゃを誤魔化して煽って、貴方みたいな素直な人を乗せるから。だから僕はニセ科学批判は全く気に食わない。ニセ科学がそうであるように。