ネット○○派 part178 必要なのはニセ科学批判の相対化

あの、擬似科学批判の類って、ある立場のある主張でしかないと思うんですよ。外国では懐疑主義者団体が擬似科学批判を熱心にやっているけれど、では学者がみな懐疑主義者で擬似科学批判をやっているか、あるいはやるべきかというと、それはまた別の話です。ことは合理主義をどう考えるかの問題で、ホメオパシーみたいな非合理なもんとオレは共存できんと思うような、非常に合理主義的かつ懐疑主義的傾向の強い人は、懐疑主義者団体にでも入って擬似科学批判をやればよろしい。


でも、そういう人ばっかりではない。


それだけではない。たとえば科学が政治の意思決定に重要な材料を提供するのは当たり前だけど、科学だけが意思決定の根拠になるわけではない。。。ようは科学の判断と社会との間にはそれだけのズレがあるものだ。そこでもしそのズレを認めないなら、懐疑主義者団体の主張みたいになってきますわね。


つまり、擬似科学批判って、それ自体は相対的な、一つの立場が扱うネタでしかないわけで、「べきでない」論にするのは個人の勝手だけれども、でもだから普遍的に「べきでない」と言えるかどうかはまた別の問題。


さらに、普通は外国語でskepticとかskepticismとかその手の単語を使うと、日常語としてはもう色がついてしまっていて、普通は「ああ、あれね」みたいな部分があったりします。


ようは、改めて擬似科学批判や懐疑主義者たちを相対化してやらなくたって、そこは自明なはずなんです。ご当人たちは、そう考えてないだろうけれども。


他方で、日本のニセ科学批判ってそうじゃないでしょう?見た目が科学だから普遍性があるような錯覚で釣っていて、さらに消費者問題とごっちゃにすることで、「ウソはよくない」「詐欺はよくない」「子供が死ぬ」と「世間の道徳」で正当性を確保するから、余計に相対化するのが難しくなる。一般人を非常に釣りやすくなっている。。。


あの、簡単に相対主義だとかなんとか言ってくれるんだけど、別にホメオパシーに科学的根拠がないことを認めないのではないですよ。そうではなくて、ニセ科学批判という立場それ自体を相対化するのが難しいのかもしれないな、本来ならばニセ科学批判だってそれは単なる「一つの立場」でしかないのにさ、ってことなんです。