ネット○○派 part125 ニセ科学批判が教えてくれるただ一つのこと

Twitter が普及して考えを改めたこと

例えば、せいぜい一人か二人の「読み違い」に基づく批判や悪罵がそうだ。そんなもの放っておけばいい、とは思う。だが、過去の他のコメントを眺める限り「理解できる」コメントを書いている人の場合、「何とかならないか」と諦めきれない。少数であれ誤読する人がいるとわかったのだから記事に補足説明を追記すればいい? それはそれで有意義だと思うので、私はちょくちょく記事に追記したり、より意図が伝わりやすい文言に改定するなどしてきた。


が、それで満足できたかというと、残念ながら、そうではなかった。プチ炎上の場合、(私の主張に正対した批判はあって当然として)誤読に基づく批判の増加ペースが落ちればそれでいい。しかし、僅かなコメントが気になって追記などをした場合は、まさにそのコメントが訂正されないと、どうも納得がいかない。


経験上、いくら記事で補足説明をしてもコメントが訂正されることはほとんどない。

はてブでいちばんわからないのは、疑問形のコメントを書いてる人。疑問があるならお答えしましょう、ということで、何度か解説をポイント送信メッセージで送ったのだけれども、一度も返事がない。いい加減にしろ、といいたい。イチャモンを付けたかっただけなら、そうとわかるように書いてほしい。

徳保隆夫さんは、ネットにおけるコミュニケーションに過剰な期待をしすぎだと思った。

・・・

このブログをはじめるもっと前に、ニセ科学批判の人と会話していて驚いたのは、あの人たちとは全く意思疎通ができない、ということだった。議論にならない。


ニセ科学批判への疑問を書くと、Aさんは「いやいや、ニセ科学批判はaですよ」という。なるほど、じゃ「a」ならこういうことになるんじゃないかと書くと、Bさんがでてきて「いやいや、ニセ科学批判はbなんです」という。なるほど、じゃ「b」なら、、、って、オレは聖徳太子か。


そりゃAさんBさんCさん・・・にはそれぞれの考えもあろうから、見方に違いがあって当然だし、それはそれでいいんだけれど、あんまり違うことを言われてもこちらが困る。abc・・・ すべてに対応できるような理屈を構築するなんて、無理だ。

・・・

これが、政治ネタではてサやネット右翼なら、言ってることがほとんどテンプレ化されてしまっているので、こちらもやりやすい。想定問答が立てやすいので、割に簡単にいなしが効く。○○反対運動も、おんなじ。


ニセ科学批判の場合は、立場そのものがねじれていて、その原因のひとつが「科学として間違い」と「世間の道徳から言って間違い」の二つの間違いを安易に重ね合わせることで、絶対に負けない、正しい議論を展開しようとするところにあるらしいというのは、散々書いてきたところ。


そうなると「自分たちは正しい」という立場を譲らなければ、あとはどんな理屈だってよろしいので、だからabc・・・という「屁理屈」さえ展開すればよくなってしまう。


つまり、これだけ違ってしまうと、ネットで会話なんてそもそもできない。ニセ科学批判は絶対に正しいという教義を受け入れる以外に、落とし所がない。そこから先は、はてサ・ネトウヨとおなじ。


昔は、ブログのコメント欄とかで遊ぶのが嫌いじゃなかったけど、そういう理由もあってコメント欄を閉じてるし、気が向いたとき以外はあんまりトラックバックも飛ばさなくなった。(別の理由は、他人とネットでつるむことそのものがネット右翼化だと思っているから)

・・・

ニセ科学批判が教えてくれたのはそういうこと。ネットでコミュニケーションをとか、自分の言いたいことが伝わる、誤解が解けるとか、そんなの絶対できない。読み手にある信念をもたれてしまうとどうにもならないので、ああそうですかということで、こちらも好き勝手に書くことにしている。


ブログでなんか書いたぐらいで、他人の認識が変わると思うほうが間違いというか、ひょっとしたら傲慢なんであって、ようは期待が過剰だということなんでしょう。


逆に、では意見が合うもの同士、「自分たちは正しい」と考える人たちでやりとりするのも、これまたネット○○派になるので、ダメだ。


そういうバランスが、おそらく普通はあんまり感じられてないんだと思う。

追記
徳保さんの Twitter はみているけれど、ようやるな、と思う。以前の僕なら同じことをやっていたかもしれないと思うが、今はもうそういう気がない。


はてブを受けて追記を書いても反応が少ないのは、結局「ブックマーク」にすぎず、コメント欄ではないからであって、ブログ主との応答の場としては不適だということなのだろうと思う。。。そこから先は、またなんか書けそうな話だなあ。