ネット○○派 part93

東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評 : 社会学玄論

宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。

宮台も東も興味がないのでそこのところはどうでもいいんだけれど、ニセ科学批判絡みで言うと、菊池先生をそういう単純な見方だけで済ましていいのかどうかがよく分かんない。


もともと科学者たちが、Skepticism の一分野である擬似科学批判を日本化してニセ科学批判というものにした。もともと欧米と日本とでは社会的文化的文脈が違いすぎて、そのまんま日本に持ち込むことができないわけだ。で、仕方がないから「ニセ科学は社会の病理」だけでは日本だと食いつきが弱いので「有害性」を強調することで、、、欧米のSkeptic たちもそこは言うんだけど、日本の場合はとくに「有害性」を強調して正当化を図ることで、一般に分かりやすい形にした、ということだと思う。。。たぶん、消費者問題色がつよい天羽先生の影響が強いんじゃないかと思うんだけど、でも核は左翼の合理主義信奉があるんでしょう。この辺はっきりしない。


で、それはいいんだけれど、問題は、そもそも横文字のいわゆる一つの “Skepticism” への誤解が無自覚なんだかどうなんだか、と言うのがよく分からない。意図的にどこまでやってるんだか、そこがはっきりしない。


仮にSkepticism の線で江原のスピリチュアルを批判するとしたら、パワースポット流行りを黙認する理由がない。つまり「有害性」がどの程度あるかってところに絡むんだろうけど、そういうダブスタをあえてすることで「相対性」を担保しているように見せかけているわけだ。つまり、「科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけ」みたいな批判を回避できるような形になってる。同じ構図は、ホメオパシーと鍼・漢方、ゲーム脳脳トレの扱いに横たわる溝についても言えると思う。


でも、そこまで「有害性」を勘案してダブスタを意図的にやるんだったら、そんなものはSkepticismでもなんでもないわけで。誤解の程度が深刻だということに、ニセ科学批判を主導している人たちがどこまで自覚的かによって、話が変わってくると思う。。。


で、本当に日本でSkepticismをやり始めたとして、で、それに賛成するかどうかっていうと僕は同調しませんよ。でもそこまでくるなら、相対主義がどうのという話も効いて来ると思うんだけど、今のニセ科学批判じゃ相対主義云々なんて話はニセ科学批判の見かけの「科学」に釣られてるだけのような気がしている。