ものはいいようだね、こりゃ。
馬鹿にもなるべくわかりやすく啓蒙してあげると
となりますにゃ。
ニセ科学でヒトは死ぬ - 地下生活者の手遊び
科学でもヒトは死ぬよ。原爆ほど政治的なものはなかった。
ニセ科学批判で人は死なないって詭弁だ。それならニセ科学批判批判でもヒトは死なない。
ニセ科学というのは不当に権力を獲得すること(そして往々にして不当にカネを儲けること)がその目的になっていると考えますにゃ。
そういうことなら、今の日本の行政が扱っている(扱ってきた)ネタを全部洗って突っ込んだらいいのにと思う。BSEも農薬米も全部。科学を名目に振りかざして利用するだけだったから。 と書くと、それはニセ科学の対象にはなりにくいんだそうだから、どうでもいいか。しかし不当に金を儲けるっていうけど、金額どれくらいなんだろ。あ、これもネット右翼との共通点だ。「やたら潔癖」。
自然科学が自由民主主義政体における権力の正統性のひとつだと捉えれば、ニセ科学は不当に権力を持とうとする試みだということになるのですにゃー。
でも現実の政治では自然科学は決して価値中立的ではなくて、見せかけのそれ。で、政治闘争するなら学問ぶらんでくれ。
何が正しいかを言うことはできなくても、何が間違っているかははっきりと言えますにゃ。それを言えなくてはガクモンとはいえにゃーだろ。間違いは間違いなのだにゃ。歴史学においても自然科学においてもね。
そして、間違いや嘘をベースにカネ儲けしたり自分たちの価値観を押しつけたりしたがる連中がいて、そいつらが批判されるのは当然なのですにゃ。もちろん、どんなに批判しても、馬鹿もウソツキも人殺しもいなくはならにゃーよ。
ここだけとれば、これはそう。そしてニセ科学批判を素直に読む人はこう見る。そして僕もこう見てた。以前は。
でも、明らかに行き過ぎがある。学問というにはそれを超えた定義を自分でやってるのに、市民運動であることは認めない。でも、実際は両者に二股をかけるような形になっている。あまりに都合がよすぎ。それで学問がどうのと言われても。
逆に、学問としてどうのと言わないのだったら、ニセ科学批判はまだ許容できるかな。たんに市民活動として、ニセ科学を退治する会として活動しますというのであれば、どうぞご勝手にで。ただ、間違いを間違いと言っているだけってなことは言えなくなりますけどね。そのほうがいいですよ。実態と建前が合致して。いまは実態と建前の乖離がすごくて、だめすぎ。