優越感と危機意識

「ニセ科学批判は、“こんなもんにだまされやがってバカじゃねーの”的優越感... - ぱれあな - ぱれあな - はてなハイク

優越感の方は、そういう有名人よりもむしろ「その他大勢」の方に見られるんじゃないですかね。それがニセ科学批判のネット右翼化ってことでもあるのですよ。(ま、理系左翼な人の場合は、優越感成分もひそかに混じってんですがね)


むしろ有名人御一行様には、危機意識の持ち方に問題があるように僕は思いますよ。危機意識を持つとき、現実と合致してたらそれは真っ当だけど、現実とずれた場合、それはただの道化か基地外にならざるをえない。


この手の過剰な危機意識は菊池先生も天羽先生もほかの先生も多分に持っておられるようにおもいます。まあ、基地外だとは言わないけれど、ただの道化にはなっている。


で、道化だと思わずに、これを本気にしちゃった人たちが先生方の危機意識を共有したと錯覚した時、「その他大勢」は優越感を抱く。ま、彼らなりの危機意識はあるんでしょうが、大筋はそういうことです。つまり、危機意識と優越感の二重構造になってんです。


しつこいようだが、どうも菊池先生は持ち上げられすぎていると思うからいつも例に出すけれども、あの先生って、

危機感を共有できないのは結構。しかし、それならなぜ沈黙を守らないのか。「そんなことは大事ではない」とことさらに言うことが、いったいどのような意味を持つか、考えられるとよいのではないでしょうか。
「ニセ科学」関連・本当の最終記事: 技術系サラリーマンの交差点

と、言っちゃうような人なんですよね。いや、これじゃはてサの踏み絵論法と同じだ。あるいは、国連で水伝の親分が演説したっていうと科学は終わるのか負けるのかって不安になる人。んなこと言われても、同じ危機感もてませんって反応するのがごく当たり前、普通です。


だいたい、共有できないなら黙れってのは、ただの傲慢、ファッショでしかない。僕が、ニセ科学批判のほうが危険で全体主義的でまるでナチズムじゃないかってのはここのところなんだ。


にもかかわらず、この危機意識で煽られると、うっかり乗ってしまう人が、ネットにはたくさんいます(うっかり乗ってしまうという意味では、ニセ科学と大して変わらんと思うのだが、そこは置いておいて)。この人たちが「間違いを間違いと言って何が悪い」といい、「自分たちは正しいんだから」となったとき、優越感になっていく。


ニセ科学批判で厄介なのは、他方でまともな学者さんが乗っかる余地があるんです。学者にも良心があるから。言ってることはまともなことが多いし、納得できるんだけども、でも菊池先生のものの考え方に潜んでいるこういう危ない部分まではだいたい考えておられないようなんですよね。危ないと言ってはいけないのかな。過剰な危機意識と言い換えましょうか。(でも、ニセ科学批判派の論文がいい加減だったって記事をどっかで読んだんですよねえ。。。この人もまともな学者さんみたいだったから、疑わしい視線を投げかけている人も、いることにはいるみたいですね)



だから、まともな学者さん連中は「その他大勢」を切って捨てることをしないし、優越感を抱いた「その他大勢」は安易に自己正当化できてしまうし、「その他大勢」自身が尻馬に乗ってしまう結果になっているんじゃないですか。当然、学者が言っているからっていう権威も機能してますよね(なんだかニセ科学を信じる人と似てるなあ)


つまり、優越感の源泉は道化師たちの危機意識ですよ。で、問題と言えばこっちの方が問題だ。


じゃ、なんでそんな危機意識を持てるのかというと、それは個人のキャラクターによる。菊池先生が平和運動のトンデモ団体に肩入れするのも、天羽先生がゴリゴリの右翼なのも、ニセ科学批判をする上で大事な要素になっていると僕は思う。こういう政治的な運動って、えてしてそういう危機意識や誇大妄想が大事なんですよね。それが前提でワッと煽るとそっちの方向に信じてしまう。たぶん、「その他大勢」の人たちも、似たようなキャラクターの持主のはずです。


道化師流の危機意識が科学者の先生方をたまたまニセ科学批判の方向に進ませたというだけで、もし、かりに、菊池先生や天羽先生が自然科学者でなかったら、ニセ科学を普及せんと懸命に努力していた人になっていたんじゃないかと思います。