どうせ危険なら狂信的理屈人間よりも本能人間の方が好き

正月休みにMicrotrendsを読み出したら面白くて、一気に読んでしまった。

Microtrends: Surprising Tales of the way We Live Today

Microtrends: Surprising Tales of the way We Live Today

日本語訳のほうにあるかどうかしらないが、なかにテロリストの項目があった。テロリストになりやすいのは、貧乏人ではなくて、中流階級で、いい大学を出ていい教育を受けて、かつもとはエンジニアか科学者の人が多いんだそうだ。へー。。。オウムを思い出したね、どうも。

ペンによると、貧乏人は、テロをやるところまではなかなか行かない。やっかいなのがテロをやる頭がいい連中だと。


でもなんでテロリストになるような狂信ぶりと論理的であるべきはずの科学者エンジニアが矛盾せずに同居できるのだろうと、やっぱり思った。まあ、自分の身に置き換えてみると、たぶんこういうことだろう。


僕には、殺してやりたい身内がひとりいる(ま、殺したい人間がいるのはだれだってそうだね)。殺すところまで行かなくても、せめて精神病院に入れるか禁治産者にするべきだと、これは本気で考えて手のうちようがないか探したけど、ダメだった。あんなやつにも基本的人権が保障されなければならない謂れはないし、抹殺してしまったほうがむしろ社会のためだと本気で考えた。今は大分自分の感情も落ち着いたつもりだが、仮に僕が酔っぱらって興奮した時に本人が目の前にいたらどうなるか、正直いって自信がない。


じゃ、何で殺さなかったかというと、そりゃあ自分の身が惜しいものねえとか、迷惑かけるもんなあとか、あのバカにも一応娘がいるからなあとか、そういう諸々のことを考えてやっぱりやめとこうと思った。生物的に、せめて社会的に抹殺させる方が世のため人のためなのは明らかなんだけど、難しい。そこのところを突破する理屈が組み上げられない。僕の粗雑な頭では。


たぶん、論理的思考が妙に精緻な頭のいい人は、そこの難しいところを突破する理屈を組み上げちゃうんじゃないんですか。


プラトンの昔から、合理性とか論理性とかいうものは、より正しいものを導くための道具として扱われた。従って、論理性を利用した瞬間に、無条件に一定程度の正しさをうちうちに含んでしまっている、意識はしてなくてもなんとなくでもこれは正しいんだろうと思える。論理それ自体、ある正しさを保障しているかのような錯覚を抱きやすい。


まして頭がよくて論理に卓越した自信を持っている人は、自己の絶対的な正しさに確信を抱きやすくなる。自爆テロをせねば世の中が変わらない、その捨石となることに何の躊躇することがあろう、論理的に正しいことをやるだけなのだから。ここから実際の行動へと飛躍するまで、苦労はたいしていらない。かくて狂信者と高等教育を受けた頭のいい人とが同居する。


。。。のではないかなあと。人間は理屈だけで生きているのではないから、適当に判断するには純粋な理屈だけではダメで、そこにレトリックだったり思いつきだったり、要は不純物を混ぜていかなければならない。


こないだThe Economistの書評を眺めていたら、大恐慌時代の各国中央銀行総裁伝みたいな本が紹介されていた。つらつら読むと、イギリスだったかどこの中央銀行の総裁か忘れたが、俺は理屈(ration)では動かん、本能(instinct)で動くのだと言うような人だったとあって、思わず茶を吹いた。本能ってか、日本語なら直感のほうがいいかもしれない。セントラルバンカーがそんなことではいかんだろと当然考えるわけだが、個人的にはここまで開き直ったオジサンを嫌いになれない。その方が、むしろ人間らしくて好きかもしれない。