戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆

戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆

 

天皇の戦争責任問題を回避してきたのは大問題だと思うけれども、「大衆」「庶民」「民衆」を徹底的に批判できなかったことが非常に大きな問題ではなかったか。

 

戦争責任から回避した昭和天皇の「無倫理性」に唖然とするのはよいとしよう。天皇制・天皇を批判することもよい。

 

しかし、その天皇制に支持を与えて、愚劣な戦争に邁進した「民衆」の責任を無視することはどうしてもできない。

 

天皇の抱えた責任と「民衆」の責任はコインの裏表で、昭和天皇の「無倫理性」は「民衆」の「無倫理性」なくして成立しないはずだ。

 

戦後の混乱や貧困で責任をとったという部分はあるのかもしれないが、天皇の責任問題がうやむやになっている以上、「民衆」の責任は十分果たされたとは言えない。

 

天皇を批判するならば、同時に「民衆」を批判しないといけなかったが、結局、右翼はもちろん、左翼も「民衆」を徹底批判することはできなかった。

 

つまり、自分を突き刺しながら、「民衆」「大衆」も刺しに行く勇気のある人間がほとんどいなかったのかもしれない。

 

たとえば網野善彦は、単純な批判では天皇制を打倒できないことに気づいていて、草の根の世界を描くことで、現実の複雑さを描こうとした。

 

しかしその網野ですら、「大衆」「庶民」への徹底批判はできなかった。せいぜい、異常な熱心さで講演会や草の根サークルをまわるので精一杯だった。それでも立派なのだろうと思う、けれども。

 

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そして、ネットの雀たちの鳴き声を聞いていると、「大衆」「庶民」「民衆」(どういう言い方でもいいけれど)の無倫理が、右翼左翼関係なく、腐臭のように漂ってくる。

 

この人たちはそれほど善人でも無垢でもなんでもないし、ましてそういう自覚は全くない。ただただ、自分は悪くないと言いつのるのみで、こちらはその醜悪さに吐きそうである。

 

あの時にこってんぱんにやっておかなかったことのツケが、甘やかしてしまったことの報いが、充満しているように、私には思われる。