裏返していうと、われわれは日本という国の名前を替えることもできるのです。(中略)われわれの総意で、かつて一部の支配者が決めた「日本」という名前を捨てて、別の国名を決めることだってできる。その時点で「日本人」はこの地上からいなくなります。もちろん、私は「今すぐ替えろ」と言っているわけではありません。(中略)しかし、替えたければ替えられるのだということをはっきり認識しておく必要がある。「日本」をわれわれが客観的に相対化して知ることが、自分自身を知るための一番の基本だと思います。
 この点で、現在の日本人は実にぼんやりとした認識しかもっていない。そこからいろいろな問題が出てくると思うのです。
(p.145-146)

 ・・・(前略)「なんとなく日本人、いつまでも同じ日本人」、こういう意識で何となく歴史を見ていたのでは、いけないのではないかと思うのです。このように地域によって、日本国との関わり方は随分違うのです。
(p.147)

「日本」とか「日本人」「日本史」というと、あまりにざっくり、当たり前に見るような感覚が先行してしまっているのが、以前より気になっている。

日本人として、という時に、自分と「日本」「日本人」との距離感があまりのも密着していないか、あるいは密着していることに無自覚ではないか、と思うことがある。

たとえば私の場合、そもそも自分が日本人である前に、自分は自分だ。そのうえで、家族があり、生まれ育った土地があり、そして日本があり、世界がある。そういう風に、同心円状に広がっているような感覚を持っているが、日本人が「日本」「日本人」という時に、そういう感覚に非常に乏しくて、自分と「日本」「日本人」が、ぱっと一体になっているように、あるいは非常に距離が近く感じられる。

網野が批判的に言及しているところの「何となく歴史を見」るというのは、つまり私の持っている印象とつながるのだろうと思う。網野は歴史家なので、歴史の面から「日本」を客観視・相対化しようとしているわけだ。

・・・

これが私が縁のあるイタリアの場合はやや複雑で、イタリアが統一国家として成立したのは150年ほどまえのリソルジメントからでしかない。イタリアを統一国家としていかに維持していくかという問題が、イタリア近現代史の一つのテーマのように私は思う。人民に国民意識を持ってもらわないと、統一国家として成立しなくなってしまうからだ。

しかし他方で、「カンパニリズモ」などという言葉があるように、「イタリア」が意識上に上がる前に自分の地元が上がって来たりするので、最初から「イタリア」は相対的にならざるをえないところがある。

ところが日本の場合、なぜかみんなボンヤリと「日本」「日本人」を相対化するのが難しいような感じになっている。

・・・

個人的には網野の主張を好ましく思っている。というのも、私は自分の中に、前述のようにいろんなアイデンティティがあり、かつその中では「日本」「日本人」よりも、極端に言えば「自分はそもそもホモサピエンスの一人」という感覚のほうが強いからだろう。

もっとも、国家統合やナショナリズムの問題は大変に難しい。現に国民国家が存在していることもあって、ナショナリズムをより強く主張する立場はあり得る。

ただそれは一つの立場であって、あたかも「自然に」国家が存在している、国民意識は「自然」なもので「当然」である、それが正しいからお前もそれに従え、というのは違うだろう。