私は、最近よく言われている「行き過ぎた正義」論からやや距離を置くことにしているのは、このところ書いている通りだけれども、これは前提がある。つまり、意見の多様性は確保されないといけない。

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私の身の回りや、あるいはニュースやネットを見ていてよく思うのは、「正解」とされるものに安易に飛びつく空気が強くないだろうかということだ。

世間ではこうだとか、周りがこうだでもよいし、あるいは「人間として」こうすべきだという話でもいいけれども、「それは本当にそうなのか」という疑問をあまり持たれることなく、「正解」に飛びつく、あるいはその「正解」が自明なものとして扱われる、という場面が多い印象を私は持っている。

言い方を変えると、問題集の解答欄を見れば答えが書いてあるからそれを見ればよいと安易に考えるのと同じように、現実問題についても接しているのではないだろうか。

Aという意見、Bという意見があるとする。

「Aに決まってるだろ」

という話になったり、あるいはだれか「偉い人」がテレビなどで言ったから、

「Aが正しい(だってテレビがそう言っていたから)」

となったりする。

私は思うが、世の中にそれほど正しいものや「正解」というものは、1+1=2のような算数・数学以外、なかなかないのではないか。

したがって、普通は、ある人はAと言い、またある人はBと言い、そのまたある人はCと言う。。。という意見の多様性が重要だということになるはずだ。

「行き過ぎた正義」が問題になるとすれば、そこで根拠が薄弱なのに意見の多様性を圧殺したり、あるいはその批判方法に物理的な暴力が伴ったり、という場合が考えられる。

ただ、「行き過ぎた正義」論が、議論をまっとうに進めるための擁護壁となるのならともかく、政治的党派色が強く、根拠が怪しい、あるいはウソに近い話を論ずるために濫用されるということなら話は別ではないか、と思わざるを得ない場面が、散見される。

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天秤の片方には、「意見の多様性」が確かに必要だろう。

しかしもう片方には、それでもなにか「正しい」とみなせるものを置いておかないといけないのではないか。

もちろん、何が「正しい」かは議論のテーマにもよるし、そうそう簡単に結論が出るとも思えない。「人を殺してはいけない」という命題は正しいが、しかし本当にいつもいつも正しいかどうかは、よく考えてみないといけないだろう。「人を殺してはいけない」という一見明白そうな命題ですらそうだ。

しかしそれでも、天秤の「もう片方」に何かを置かないといけない。でなければ、意見が多様なだけで終わってしまい、「あなたはあなた、私は私」「私はこう思う、これが正しいと思う、あなたは違うんでしょ、じゃ関係ないよ」という過度の相対主義になり下がる。

それで議論はできない。

そこの問題をどうするかという疑問が、「行き過ぎた正義」論には著しく欠如しているように私には思われてならない。

ではどうするかということについては、ゆっくり考えていきたいと思っているが、とにかく今の私はそのように考えている。