ネットを眺めていて、自分の「正義」の行きすぎは分かりにくいものらしい、と常々思っている。

これは自戒を込めて書いているが、例えばこのブログで取り上げてきたニセ科学批判には、この正義感の行きすぎの問題があるだろう。

政治的党派についても同じであって、「ネット右翼」と言われる現象についても、彼ら自身にとってはそれが「正義」であって、つまりそれが行き過ぎているからおかしくなっている面は確かにありそうである。

他方で左サイドについても、しばしば「正義」の行きすぎや自覚のなさは揶揄されるところだ。

この種の行きすぎ(のように見える言動)は、自分の「正義」について客観視できないところに由来している。

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しかしもっと難しいのは、他人の「正義」の行きすぎを揶揄したり批判したりするときに、それが自分の「正義」の行きすぎと正面衝突しているだけではないか、自分の行き過ぎた「正義」からみて相手のふるまいが「正義の行きすぎ」に見えているだけではないか、という場面があることだ。

ニセ科学批判とその批判対象の間にもそういうことがあって、いわゆる「ニセ科学」でもなんでもいいが、そういうものにはまってしまった人にとってはそれが正しいのであって、ニセ科学批判が何を言ったところで通用しないどころか、むしろ「科学は万能ではない」等々といった、ニセ科学批判サイドの「正義の行きすぎ」を云々し始める。

滑稽だと思うかもしれないが、ニセ科学批判だって、「ニセ科学」を別に擁護するつもりのない私のような人間が「ちょっと変じゃないか」と書いてみると、ニセ科学批判の自覚が足りないことが露呈したりするわけで、結局同じ穴の狢じゃないかという話になってしまう。

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政治的党派についても同じようなことが言える。

たとえば、左翼がくだらない理屈や暴論、つまらないやり方の揶揄で現在の安倍内閣を批判して打倒しようとするさまを、右翼は笑うし、時に「正義の行きすぎ」として呆れられている場面もある。

私もそう思うことがよくあるわけだが、他方でそういって左翼の「正義」を笑うほうはどうか。

たとえばリフレは「正しい」、それを実行している安倍内閣はだから「正しい」ので、少々のことはどうでもいい、となると、これはこれで正義の行きすぎであって、実際そのようになっている。

こうなると、右と左で正義の行きすぎのまま正面衝突しているのだが、当の本人たちはそう思っていない。あくまでも、自分たちの正義は行きすぎでなく、相手の正義のほうが行き過ぎであると認識している。

これは大いなる錯覚だ。

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つまり、「同じ穴の狢」だ、ということだが、ここで話が終わると単に相対主義で終わってしまう。どっちもどっち、という話になって、なにも生み出さない。

そうではなくて、どちらも正義の行きすぎであるならば、自分は本当に問題がないか、吟味しないといけない。

その上で、自分はどうするか、ある決断なり決心なりが必要となるだろう。

その決断・決心は、最終的にはその人の独断に依存するしかないと今の私はそう考えている。大変に心細いものだと思うが、それだけに、緊張感をもった決心となるはずで、そういう声を、私は聞きたいと思う。