ネットではよく、「正義の暴走」を揶揄するのに、聖書の有名な話が使われる。例の姦通罪で捕らわれた女が石打ちされようとするところ、イエスが「罪のないものだけが石を投げよ」と言ったという話だ。

 

確かに、新約聖書を眺めると、イエスというのはそういう人だったらしく、人間が人間を裁けるものではないとよく言っていたらしい。

 

私ももっともなことだと思う。

 

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ただ、ネットでこの話が引用されるのは、単に自己正当化のために「お前はお前、俺は俺」と言いたいがためだけではないかと見える時がある。

 

それは違うと私は思う。

 

姦通を犯した女に向かって石を投げるることは誰にもできないかもしれない。しかし、「お前はお前、俺は俺」を徹底させると、倫理がグズグズになってしまう。それでいいわけがない。

 

ではどうすればいいのだろうか。

 

私には何の答えもないが、個別具体的な現実を前にして、そのたびに考えて悩むことしかできない。

 

私の場合、できるだけ余裕をもっていたい、倫理的に過度に厳しい尺度を持ちたくないと普段は考えている。なにより、自分自身が裁かれたくないからだ。イエスも言ったように、

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

 

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しかしその後に続けて、イエスはこう言っている。

 

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」

 

 まず自分自身を振り返って考える、そうすると他人を裁くことはできないはずだが、そこで留まっていてはいけない、ということだと、私は思う。

 

自分の目の「丸太」を棚に上げるな、とイエスは言っているだけで、自分の目から「丸太」を取り除いた後では、兄弟の目の「おが屑」を取り除かないといけない。

 

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ところが、世間を見回すと、実際には二つのパターンの人しかいない。

 

 一つは、自分の目の「丸太」を棚に上げて、他人を裁こうとする人だ。

 

もう一つは、自分の目の「丸太」をそのままにして、その「丸太」の存在をそのまま是認して、開き直ってふんぞり返って「お前はお前、俺は俺」と言う人だ。

 

 私はどちらも嫌いだ。

 

自分の目の「丸太」は棚にあげず、取り除こうとしたうえで、他人の目の「おが屑」もできれば取り除きたい。

 

おかしいものはおかしい。それは自分に対してもそうだし、他人に対してもそうだ。

 

私はそう思う。