「結果よければすべてよし」というが、基本的にはそれではよくないと常々考えている。

 

しかし現実社会を見ると、「結果がすべて」などと堂々と言い募る人間が多くてやりきれない。

 

・・・

 

たとえば、英語の検定試験で、目標とする点数に到達する、何級に合格する、としよう。

 

つまり、「結果を出した」わけで、それ自体は何も否定することではないが、問題はそこではない。

 

その人がどういう勉強をして、どの程度英語が身に付いたか、過程が大事なのであって、結果はそのあとからついてくるもののはずだ。

 

たまたま「結果」が出たからといって、「結果がすべて」などと言って開き直られても困ってしまう。

 

・・・

 

もっとつまらない話だと、中学校の数学の問題がいい例えかもしれない。

 

小学校の算数ならともかく、中学校の数学になると、答えだけがあっていることには意味がない。その答えを出すに至った計算過程が大事であって、数学の先生は本来、そこをチェックしないといけない。

 

ところが、答えがたまたまあっているからと言って平然としている子供はすくなくないだろう。

 

そういう子供に説教できる大人が、はたしてどれだけいるか。はなはだ心もとない。

 

・・・

 

「結果がすべて」ではない。過程を検証しないことには何も言えない。当たり前のことだと私は思うが、それが当たり前のことではないらしい。

 

小人は度し難い。その度し難さが自覚できずに開き直られるから、ますます度し難い。世間には、そういう人が多すぎる。