ネット右翼に足を引っ張られた佐喜眞候補【沖縄県知事選挙 現地レポ~敗北の分析】(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

沖縄県知事選挙について私が言うことは何もないんだが、ネット右翼の問題との関係で、次の一節が大変に気になった。 

 

 最後にこの事実を書いておく。冒頭の大広間で、私は或る佐喜眞陣営選対関係者に詰問した。

 

「どうして、在沖縄のネット右翼活動家らを放っておいたのですか。却って佐喜眞さんの足を引っ張っただけじゃ無いですか」

 

 関係者は、「それは彼らの政治活動の自由であり、私達が強権的に制止することは出来ない」と苦渋の表情で前置きした上で、

 

「連中、星条旗日章旗を一緒に掲げて中国の侵略がどうのこうのと・・・。正直、やめて欲しかった。勘弁して欲しかった。冗談じゃないよ」

 

 佐喜眞氏敗北が確定したことも重なってか、関係者の瞳の奥には、ネット右翼への敵愾心とも取れる静かな憤怒を感じた。

 

私は全く選挙を追っていないので知らないんだが、佐喜眞候補が選挙演説の中でそういう陰謀論を全く否定して、古谷が言うところの「ネット右翼」を切り捨ててしまえば済む話なのではないだろうか。

 

逆に言うと、どうして佐喜眞さんは「ネット右翼」を切り捨てられなかったんだろうか。切り捨てたうえで、勝手に騒がれる分はやむを得ないのかもしれないが、それでも「ああいう連中とは無関係」と言い続ければよかったのではないか。

 

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私は何度も書くように、人権擁護法案反対運動のおかしさを批判し続けたことがある。あれは結局、日本の保守派、安倍さんの周りにいるような右翼によるネット上の扇動だったと個人的には確信している。

 

根拠はいろいろあるけれども、たとえば人権擁護法案反対運動の決起集会で次代のプリンスとして安倍さんがビデオメッセージのようなものに出たり、あれにかかわっていた人たちのグループが今でも出てくる面々とほとんど変わらない、などということを考えた場合、人権擁護法案反対運動の扇動主体と、現在安倍さんの周りにいるサークルはずっと関係があったと考えたほうが妥当だ。

 

ただ以前は、ネット右翼そのものの影響力はそんなに大きいようには思わなかったので、そのあり方を問題視して、ネットで形成される徒党の批判へと拡大させた、というのがこのブログである。

 

もっとも、これだけ保守派の宣伝が浸透すると、ネット右翼の「あり方」の批判だけでは到底追いつかないところがある。

 

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ネット右翼なるものが、保守派・極右の宣伝要員・扇動家とその宣伝を信じた人たちによって構成されていて、だからこそリアルの極右とネット右翼の主張が全くかぶるわけだが、リアルの極右とネット右翼がダイレクトにつながっていると考えた場合、古谷が言うように、

 

在沖縄のネット右翼活動家らや、及び全国に存在するネット右翼の、「善意による」佐喜眞氏への勝手連的な応援

 

という、その「勝手連」というのが、どこまで「勝手連」なのか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。

 

本当にただの「勝手連」で佐喜眞陣営が多大なる迷惑をこうむっていたのであれば、そういう集団はとっとと切り捨てればよかったのではないか。

 

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ところが、この「勝手連」なるものは、最終的には安倍さんの周辺とつながっているものだから、これを切り捨てられないのはもっともな話だ、とこういうふうに考えると、少なくとも私は非常に納得できる。「個人の政治活動を強制的にやめさせることはできない」とでも言うしかなくなるが、それは「勝手連」の主張を黙認しているも同然だ。

 

つまり、陰謀論を垂れ流して、フェイクニュース対立候補を叩こうとする「勝手連」は、「善意」でもなんでもなく、あるいは「勝手連」的で「善意」のつもりの人もいただろうが、実際のところは極右の活動家集団、と考えたほうが理に適うのではないか。

 

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ネット右翼というのは、保守的傾向を持つネット上の徒党、という認識で私はいるし、だから「ネット○○派」という文章も書いてきたわけだけれども、リアルとの関係でいえば、「ネット右翼」というのはネットで孤立しているわけでなくて、リアルと密着した存在で、保守派・極右の扇動集団・活動家グループが中心にいると考えるべきだ。彼らの宣伝を信じ込んだ人たちがあるいは「勝手連的」に活動をする場合もある、ということなら理解できる。

 

言い方を変えると、ネット上の宣伝活動の結果、リアルの政治的動員に転換することができた、ということだ。

 

ネット右翼」というと、単なるネット上のジャーゴンで、どうしてもふんわりしたイメージしか持たれないし、私もそういうふんわりしたところを利用して「ネット右翼」という単語を使っているのだけれども、そういう言葉の使い方・意味合いでは収まらなくなっているのではないか。

 

ネット右翼」という単語そのものから見直す段階になっている、と私は思う。