夏目漱石の「虞美人草」は評価が分かれる作品で、否定的な評価のほうが強いんじゃないだろうかと思うが、それというのもおそらく筋が破綻しているからだろう。特に大詰めで登場人物が勢ぞろいするあたりの展開があまりにも突然かつ強引で、自然さが欠如している。

しかし、私はこの場面が大好きで、漱石の小説の中でも一番好きな場面だ。

最後に宗近君が大活躍して話をまとめ上げてしまうわけだが、この宗近君が、優等生だがすっきりしない小野君と腹を割って話をする段になって口にするセリフにしびれる。

「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」

これまで、小野君は、不真面目だというわけではなかったのかもしれないが、どこか「上皮」で生きていたのだった。しかし、「第一義」のところを叩いてみないといけない、「真面目」にならないといけない、そうでないと生きている甲斐がない、宗近君はこう言う。

真面目というのは、その人の本当のところをさらけ出してみることだ、世間に合わせた「上皮」ではなくて、その人自身の根本、「第一義」を表に出すことだ。漱石はこれを「真面目」と書く。

・・・

宗近君は、小野君はいつもどこか不安そうだと言う。そう言われた小野君、不安なのは生まれつきだとしょんぼりする。宗近君はこう返す。

「こう云う危い時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」

世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。そして、学のあるなしは真面目と関係がない。本当にそうだと思う。

一般的にはどうだろうか。むしろ、「上皮だけ」で生きることのほうが、なんだか大人であって、世間を知っていて、優れている、かのようにすら思われている。そうでなくても、自分は「真面目」だと信じていても、よくよく根本を叩いてみると「上皮」だということも往々にしてある。もちろん、そんなふうに話を運ぶつもりは漱石には毛頭ない。

宗近君は続ける。

「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。」

人間らしい気持ちをしていない人間、土だけでできている人形が、世の中にどれほど多いことか。漱石は大いに不満だ。

「真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据わる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。」

おい、そこのあんた、ちょっとは「頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけ」てみろよ。

と言いたくなる場面が、現実に生きていると多いこと多いこと。

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しかし、小野君は本当に「真面目」になったんだろうか。宗近君が、小夜子を藤尾に紹介して、小野君と藤尾の関係を綺麗に絶ってしまおうというと、一瞬、小野君はひるんでしまう。宗近君はもう一押しする。

「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」

「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」

どんな大勢の中でも構わない、やりましょう。

これで、小野君は本当に「真面目」になった。人間、「真面目」になれば、他人がなんだろうが、構ったものではないはずだ。

・・・

場面は変わって、甲野君の家で、甲野君が引越しの準備をしている。義理の母親は遺産目当てでまさに「上皮」の権化のようにして生きている。

そこに糸子がやってきて、「お迎えに上がりました」という。家を出ようとする甲野君にオロオロしていた継母は言う。

「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の家を出るんだか知らないが、少しは私の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」

これに対して糸子は答える。

「世間はどうでも構わないです」

糸子も真面目になったのだ。

「上皮」で生きている継母は、なんとか糸子を帰そうとするが、糸子は断じて跳ね返す。その会話はすべて痛快だが、締めがすこぶる良い。

「分らないわ、私には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母さんの迷惑になるはずはないわ」

「だって、こんな雨が降って……」

「雨が降っても、御叔母さんは濡れないんだから構わないじゃありませんか」

もっともだ。雨が降っても、継母は濡れないのだった。濡れても構わないと思っている人が、そのつもりで雨の中を出ていくのは、何の問題もない。

・・・

今読み返しても、漱石の、爆発的な、火山のような、エネルギーに満ち溢れた、アップテンポの文章に打たれるのだが、漱石の不満がどこにあったのか、きわめて明快に現れている一節と思う。

つまり、明治のころから日本人は不真面目に生きていて、それが今まで続いているわけだ。

もっとも、漱石もこの「真面目」を徹底させるのが難しいことはよく分かっていて、そうでなければこの後に続く、不倫が関係する小説などは書けない。

それでも、漱石の不満にひたすら頷く私も真面目でなければならないと思うので、小野君のように「どんな大勢の中でもかまわない」を現実に応用させて生きていたい。そして、実際にそうしているつもりだ。世間など、構っていられるものか。そうでないと、こちらが押し潰されてしまう。そうしないとこちらが死んでしまうのだから、「こっちのほうが得でしょ」などと大人ぶった態度はとれる余裕はとてもない。