呑兵衛雑談(4)ポピュリズムの温床としてのメディア

ニュースステーション」は民放の番組だったので、視聴率が高いように、つまり売れるように作るのは当然のことだ。今では、日本にまともなニュース番組はほぼなくなってしまって、ニュースショーしかないのも、ビジネスという側面だけでいえば当然のことだろう。

ただし、ニュースを報じる番組がそれでよいのか、という疑問はもたれるべきだと思う。

「ニュース番組」と言ってここでは単に事実を述べるものではなく、その番組の見解や意見なども交えて報じられるわけだが、そういうものがただビジネスの観点から「売れる」ものを作るというのはどういうことなのだろうか。

ニュース番組なんだから、中には「売れにくい」話も当然あるはずで、そういうものはどうなるんだろうか。

テレビ制作者たちの言い分はいろいろあることと思うが、一視聴者としては「アホ臭くて見とれんわ」と思うしかないものを流しているように見える。しかし、そう思うのは私の勝手であって、現実には私が「アホ臭い」と思うものが売れているから、だからそういうものがテレビ画面に映っているのだろう。

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そういう「アホ臭い」ものほど、アホでも分かるような伝え方をする。

これはテレビだけの話だけではなくて、たとえばネットの人権擁護法案反対運動でもそうだった。今でも「サルでも分かる人権擁護法案」というサイトがあるが、あれも本来は複雑な話を、意図的に単純化して語って扇動した事例であって、悪しきポピュリズムの一つと言ってよい。

私たちは、複雑な話を複雑なまま聞いたり読んだりする、というよりも、複雑な話を単純にして「サルでもわかる」「小学生にもわかる」ようなものに慣らされているし、これからもそうだ。

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つまり、メディアがビジネスに徹しているため、「売れる」ものばかりが店頭に並ぶことになっている。それがポピュリズムの温床の一つになっていないか。

これに加えて、日本語の壁という要素を付け加えておきたい。

たとえばヨーロッパであれば、各国で言語が違うとはいえ、言語的には日本語ほど遠くない、むしろ近いものが多いので、英語はもちろんのこと、その他の言語ができる人は少なくなく、言葉がいくつかできることは珍しくない。そういう環境であれば、他国のメディアがおかしいことを言えば、批判も比較的容易だ。少なくとも、日本人が英語でアメリカの新聞に異議申し立てするよりは容易だ。

他方で、日本の場合、日本語ができるのはほぼ日本列島に住んでいる人たちのみであり、かつ外国語ができる人も極めて少ない。そういう環境であると、日本語による情報で完全に飽和してしまっており、また海外情報はそれを日本語にして報じる主体の取捨選択が決定的なものとなってくる。

そのうえで、メディアがビジネスに徹しているとどういうことになるか。

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もちろん、メディアとしては、誰かが意図的にポピュリズムをやろうとしているわけではない。単に、そうしたら売れるからそうしている、というに過ぎない。

しかし、結果として、日本のメディアが行っているのはポピュリズムの扇動になっている。

そのもっとも分かりやすい例は、週刊誌メディアによる「嫌韓・嫌中」記事で、そういうものが売れるから、ライターたちが嫌でも書かざるを得ない状況になっているという話は、しばしば目にするところだ。

しかしこれは週刊誌だけではなく、他のメディアでも全く同じで、週刊誌の嫌韓嫌中ネタに対する批判は分かりやすいしやりやすい、というにすぎない。

では、たとえば「知的」を売りにしているシノドスが、テレビメディアをポピュリズムの文脈から批判できるかというと、まったく不可能だ。なにせ、ポピュリズムの牙城の一つたるワイドショーに、コメンテーターとして出演している人間がシノドスに存在する始末であって、いまさら批判できない形になってしまっている。

そして同様の構図は何もシノドスに限ったものではない。

売れるから仕方がない、これがビジネスだ、と面と言われて私が反論できるかどうか、自信はないが、本当にそれでいいのか、それはポピュリズムなんだが本当にいいのかという疑問は、常に、そして強く、感じておきたいと思うのである。