本をすすめるより、とりあえず海外メディアの比較を

ある程度の年齢以上の人たちで、勉強を継続するのもつらいがしかし物を知ってないと、という場合、社会問題であれこれ本をお勧めするなら、外国語の新聞や雑誌を比較して読むことをまず挙げたいと思います。

たとえば英語の勉強のために、Time を読もう、The Economist を読もう、New York Times を読もう云々、というのはありがちな「英語学習」ネタで、意味がないとは思わないしむしろ非常に有効なんでしょうが、問題が一つあるようにはかねがね思っています。海外の高級紙・雑誌などこの種の媒体の政治的傾向やバイアスの問題がえてして閑却されがちであることです。

日本語のメディアでも全く同様ですが、おなじテーマを扱った記事を比較して読むことで見えてくるものがあるわけで、そこを読むのが大事なことの一つではないかな、と思います。しかも、一国内のメディアで比較するだけでなく、さまざまな国のメディアを比較して読むのです。

たとえば、日本で総選挙の結果、民主党政権交代されるということがあった場合、各国のメディアを適当に見つくろってそれを読んで扱いを比較する。「あはは、こりゃひでーや、日本のことをなんも知らんのじゃないかw」ということもあるだろうし、「ああ、そういう見方もあるのかなあ」ということもあるでしょう。

これの何がいいかというと、外国のメディアだからと言って過度の信頼を置くことは全くなくなって相対的に眺められるようになるということです。権威が揺らいでしまう。例えば、Financial Times は確かに立派な新聞かもしれないが、ではこの新聞の論説や記事をどの程度信頼していいのかはまた別問題で、ひどいニュースや相当の偏見が混じった記事を平気で流していたりする。そうなると、

「なーんだ、ファイナンシャル・タイムズとか言われると信頼しちゃうけど、こんなものか」

となるわけ。そりゃそうだよ、Financial Times なんて読むの、まずはロンドンの金融街の人たちだから、彼ら向けに書いてあるんだもんな。。。ま、分かってる人は分かってるんだろうけれども、日本人の多くはまだまだこの種の舶来信仰を根強くもっている。

白状すると、私も The Economist などを無理やり読んでいた時期もありました。でも、冷めちゃうと「なーんだ」となった。あはは、いつもの The Economist 節だなぁと。だから、The Economist の元編集長があれこれ言っても、「なるほど」で終わる。そういう見方もあるのかな、と。

クルーグマンにさめちゃった、ということもありました。NYTの彼のエッセーをまとめて読んでみようと思って読んだときに、鼻白む思いをしたことを今でも覚えています。一般向けのエッセーだから分かりやすく旗幟鮮明にというのもあるんでしょうが、こりゃ同じことの繰り返しじゃないかと。いや、私は経済学なんて全く知らないし、経済学者としてのクルーグマンの評価はまた別でしょうからそれはそれで結構なんですが、コラムニストとしては「ふーん」となるしかなかった。

その後しばらくして、ユーロ危機などでEUサイドの主張などと比較して読んでみると、どう考えてもクルーグマンの言っていることは素人目にもおかしい、あるいは単にNYTの読者向けに外国のネタを利用しているだけであって、米国人や米国の民主党支持者が感心して読むならともかく、ネタとして使われた国の人間まで感心して読むことはないんじゃないの?という疑問が芽生えると、

「なーんだ」

となりますわね。そこで舶来の権威が剥げてしまう。

そうなると当然、日本のリフレ派の言っていることにも疑問を持つようになるわけで、ネット・リフレ派はそれ自体おかしいのでクルーグマンに関係なく批判できるだろうと思いますが、でも彼らに対して疑問を持つ一つのきっかけになることは間違いない。

そのうえ、ネットリフレ派は、さんざん海外の経済学者の名前を、

水戸黄門の印籠」

の如く振り回してきたわけで、肝心の「葵の御紋」にいささかの疑問を持ってしまうと、「印籠」の威力も薄れるのも理の当然でしょう。

かくなる次第で、海外メディアを比較して読むと、いろいろ面白いことが見えてきます。日本のメディア、またネットでも、海外「出羽守」をやらない日はないのであって、「出羽守」に簡単に感心しないという意味でも実用的だし、これはつまんない本を薦めるより結構なのではないかな、と思います。インターネット時代で、手軽にこういうことができるようになりましたしね。

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後は蛇足で二つだけ。

一つは、とはいっても日本のメディアのお粗末ぶりが問題であることにはかわりないということです。

新聞は字が大きくなって、ますます情報量が少なくなるばかりだし、テレビは視聴率を求めてショー化する。この点、決定的に海外のメディアと異なっている。バイアスの問題は大いにあるけれども、情報量の点で日本のメディアはとても太刀打ちできない。

さらに、少なくとも同じアルファベットを使う言語のメディア間では、国が違ってもそれなりの比較なり批判なりは言語が違うと言ってもまだ可能な場合は多いですが、日本語の媒体だとまず日本語が正しく理解できる人というのが海外に少ないはずなので、批判・比較が難しい状況にあることは間違いない。東アジアの歴史問題云々に関してはいろいろあるんだろうが、「ネタ」がいつもそれだけのように見えるんだけども、これは良くない。日本語の壁が高すぎるので、メディアが楽をできる。

しかも、例によって日本のメディアは横並びが過剰なので、日本語の閉じた世界の中で同じ情報を連日流すことで、単色の世論が結果的に、かつ容易にできてしまう。本当は、もっと異論がたくさんないといけない。

個々の記者さんたちに優秀な方が少なくないのはそうなんでしょうが、結果として出てくるのがこれなので、海外のメディアに太刀打ちできていない点があるというのは認めざるを得ない。

と言っても、海外のメディアもそれはそれで変なことが多いので、舶来物を崇めることもない。

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二つ目は、海外居住者、あるいは居住経験のある日本人のバイアスの問題。

ざっと見渡したところ、海外居住者で現地の言葉ができる人でも、メディアを比較している人というのはおそらくかなり少数で、むしろどっぷりつかってしまう人の方が多いんではないでしょうか。

たとえば福島原発の問題など、海外、特に欧州から見れば、自分たちには関係ない遠い国の話のうえ、しかし大事件には違いないので、つまりメディアから見ると「美味しいネタ」以上のものではないんですね。実際、そういう扱いをされることが非常に多かった。

そこでメディアを比較するなり、信頼できる学者の見解を求めるなりしていれば、少しは距離を取って批判的に読むこともできるんでしょうが、そこでどっぷりつかってしまうと、

「日本で報じられてないことが、こちらの新聞に書かれている!」
「海外紙に真実が!」

・・・みたいな話になりやすい。日本にいる日本人の舶来信仰がそれに輪をかけてしまって話が伝播してしまう。

そこでメディアの比較をしていると、「どっぷりつかる」弊害から少しは抜け出せるんじゃないでしょうか。

さらに蛇足の蛇足として言わせてもらうならば、日本人は英語のことばかり念頭にあるので、英語圏、とくに米国に「どっぷりつか」ってしまいがちだということも付け加えたいと思います。それはそれで立派なバイアスです。もちろん、米国だけじゃなくて、英国居住者が英国バイアスに「どっぷり」などなどということもあるわけで。

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毎日毎日、海外紙の比較をできる人はなかなかいないだろうし、自分もそこまではやっていないが、大きな事件があった時や何か気が向いた時にやってみると、これは面白いし、実用にもなるのではないかな、というわけです。