扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part30

あれこれ書いてるけれども、リフレ派そのものは私は今は基本的に全く見てない。たまに検索をかけたり、うっかりTweetを見てしまって面食らうことはあるけど、そういうときはブログに書いてる。


ただ、相当にまともというか、がちがちのリフレ派でない人がうっかりリフレ派の言い分を信用してしまっているのを見てしまうと、もう本当にやりきれない気がする。


リフレ派の人たちはまだいいですよ。ネット右翼相手に「お前はアホか」と言っても仕方がないのと同じで、放置するしかない。


でも、もうごくごく一般の市井の人が「日銀がまともな金融政策やってくれないと」みたいなことを書いてるの見ると、、、それ自体はまあ分からないでもないんだけど、、、どう考えてもリフレ派の煽りにあてられてるのが見て取れる。


やりきれない。やりきれないんですよ。リフレ派の連中、本気でリフレができるとも思ってないし、やる気もないのに、ごく一般の人がそういう連中の煽りをくらう。そりゃ、やりきれなくもなりますよ。

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もっとも、リフレ論そのものは、それなりに妥当な部分もあったんだろうし(あれだけの経済学者たちが説いて来たのは事実なんだから)、それはそれでいい。中身の検証は、専門家が議論してくれたらいい。


そこで我々のような素人がどういう考えや感想を持っても自由でしょう。


でも、リフレ論に関する議論をずっと眺めてきたけれど、結局のところリフレ論を吹いてみたところでどうにもならないことが明らかになっただけだった。


リフレ論は、もはや日本銀行財務省などの官僚、政府などを叩くための道具にしか結局ならなくなった。憎悪をぶつけるための「ネタ」以上のものでなくなってしまってる。


こんな「ネタ」を信用するのは、もうバカバカしいですよ、正直なところ。いくらリフレ論そのものにいくばくかの妥当性があるとしても、こうなっては信用できません。

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以前、リフレ派に大きな違和感を感じたきっかけは勝間和代に関する一件だったと書いた(http://d.hatena.ne.jp/jura03/20110809/p2)。彼女がリフレ論で当時の菅直人財務大臣に直談判に行くとかいう「ネタ」に、リフレ派の先生たちがむしろ賛意を示したことにがっくり来てしまったのだった。


政策理解を促進するためにはある程度の宣伝は必要かもしれない。それはそう思う。


でも、だからって今みたいに「リフレ派」や「リフレ論支持者」を増やすためにドンドン下らない方向に、このブログ流に言えば「ネット○○派」というネットの徒党を形成してオナニーを展開するしかなくなってしまってるのみると、そら呆れるでしょう。


むしろ、この種のマスターベーションを「切れば血の出るリアル・ポリティクス」などと言ってみたり、極右とつるむことを多数派形成の努力のためとして見て見ぬふりで黙認してみたり。


で、自分たちはものの分かったインテリ知識人なので、そこらのアホと違うと信じてるから、「こういうことも必要悪だよね」仕方ないよね、みたいなことになって慣れ合う。


これでリフレ論を信用できますかと。


本当に信用できる話だったら、素人を釣ってないで、プロの学者や専門家を説得して多数派を形成しなさいと言うんだ。プロを説得できないで、多数派形成には時間がかかるだなんだ言いわけして、そんで自分たちの考えの通りにやらない中央銀行や行政当局を叩いてるんだったら、こんな安易なことはない。よく臆面もなく素人に「俺たちの話が正しい、信用しろ」というポジションがとれるもんだよ。

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ニセ科学批判みたいなものもそうなんだけど、結局リフレ論ってインテリのアクセサリー以上のものを出なかったんだと思う。「ものを知っているインテリな俺(たち)」「正しい俺(たち)」というポジショニングのためのアクセサリー。


その実態は、「ネットで真実に目覚めたネット右翼」と同じなんだけどもね。


だから、もうほんと、リフレ論をうっかり信用している人たちは、もうちょっといろんな人の意見、専門家筋の意見を眺めてみた方がいい。リフレ論に無駄に釣られないほうがいいよ、ホント。