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夏の暑さが異常になってきている。
「地球温暖化対策」と口で言うのは簡単だが、要するに経済活動を抑制しろということに他ならない。
そんなことが人類にできるとは私には思えない。
基本的人権の問題も気になっている。温暖化の要因として、人間の呼気や排出するガス、また生命維持に関わる諸々が問題になったとして、じゃあ人口を10億人単位で減らしましょうという話にはできない。
基本的人権を維持しながら、これ以上の温暖化を抑制することが本当に可能なのだろうか。
最近、私が生きている間にこの文明が終わるような気がしてならない。終わらないかもしれないが、とんでもないことになるのではないかと思っている。なにより、子供たちの将来はどうなるか。我々の無責任と面倒を一方的に背負わされるのが子供たちだ。
こういったことは考えるだけ無駄な不安だ。人類はいままでだって文明の終焉を何度も経験してきた。今度の終焉もそのうちの一度でしかない。しかし、不安は常に念頭にあるし、そうあるべきだろうと私は考えている。
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「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条(1/10) | JBpress(Japan Business Press)
トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資:「表現の自由」水かけ論より問われる財政規律(1/9) | JBpress(Japan Business Press)
シンポジウム「2019年‐2020年、アートは異物を受け入れるのか」開催のご案内
http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2019/07/20190719073003.html
神戸新聞NEXT|総合|津田大介氏招くシンポ、中止を発表 主催者側
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愛知の当該展覧会は再開したらいいじゃないかという声をみるんだけれども、どこまでも安易な発想だと思う。伊東乾の言うように、そもそも予算の問題をクリアしなければならない。警備員や入場者の手荷物検査などの費用は当然公金だが、事前に想定されてないはずである。
そういうことを誰も考えていない。
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問題はいろんなところにあって、役所は動員人数しか見ないので、津田大介のような名の知れた人を担いで、目立つことをやって動員を稼げたらいいや、くらいにしか考えてなかったのではないかと思う。
リスクをちゃんと考えていないことの問題は、別の議論でもやっぱり出てきて(それも津田がえらく推奨していたわけだけれど)、とりあえず芸術に限定すると、役所の人たちのほとんどは芸術に全く無関心で、芸術家にリスペクトがない。名古屋のような大都市でもそうなんだったら、私の住んでいるような地方都市はなおさらそうだ。
一度、高校生に世界一の演奏家がレッスンを付けるという公開講座があり、見に行ったことがあるが、後ろにいた公務員のおっさん(たぶん学校の先生)が、いきなり直接介入して生徒に指示を出したのでびっくりしたことがある。
この地方都市では、世界一の音楽家よりも、学校の先生のごとき地方公務員のほうがはるかにエラい、という現実をよく表した瞬間だった。
これも学校の先生だから特殊というよりも、公務員はだいたいそういうもので、「田舎の田んぼの世話のことしか考えてない」などと言われたりする。芸術に興味も敬意もなくて当たり前だろう。
しかしそれも、役所の人たちだけ責められないのは、結局ごくごく一般の人たちの芸術に対する無理解がひどい、ということなんだろう。
芸術や芸術家に対する敬意が全く欠如している。
一連の騒ぎも、最終的にそこに問題があるように思っている。政治の問題は除外するとして。
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なまじっか芸術監督なんてものになってしまったので、神戸の「イベント」でもこういうことになってしまう。
シンポジウムの中止は妥当だ。それは政治的にどうというよりも、芸術に特別な認識もなく業績もなく、単に神輿として担がれただけの人に何を語らせてるの、という問題があって、失敗したんだからそりゃだめでしょうと。事故があってもそれでもなお傾聴するべき見識がある、というような重みがないので、擁護のしようがない。そういう意味では、愛知でコケておいてよかったのかもしれない。
世の中には、「でも○○はできたんだから、それは功績でしょ」という意見があるのも見る。
そういうふうに認められる話は世の中にたくさんあることは重々承知の上で、もういいよ、もういいよ、という気にしかならない。
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ロシアで、Olga Misik という17歳の女の子が、デモの最中、警察の前でロシアの憲法を読み上げるということをやったそうで、これがヨーロッパのニュースサイトでは軒並み取り上げられている。日本でどうなっているのかは知らない。
ロシアの国内情勢を知らないし、ロシア語も分からないので、表面的な情報だけでものを言うと、
学生は政治活動せずに、デモなんかやらずに勉強しろなどと、ぬけぬけと言う「大人」ばかりの日本で、こういうことは考えられない。
あんたがた、ネットでは何の心配もしないで自由だなんだというけれど、いざという時にこの17歳の女の子と同じようなことができるか?
今の日本人は、ろくに抵抗しないどころか、抵抗するのは「大人」ではなく、体制に(あるいは大勢に)順応するのが「大人」な態度とか何とか言ってバカにするだけでしょう?
無論、私はこういうことができるだろうかと思って自問自答する。どこまで抵抗できるだろうか。今でも多少は目の前の現実にいろいろ抵抗している。現実をより良いものにすると、必ず抵抗が伴う。対してネットではなんにもできない。
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一騒動起こして、問題提起だとかいう手法、それ自体がダメだとは思わないけれど、もうそれいいから。ほんと、もういいから。それで宣伝すんの、やめてほしい。
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炎上すべくして大炎上「あいちトリエンナーレ」 京アニ「誤解」につながる少女像展示はポストトゥルース政治(6/6) | JBpress(Japan Business Press)
芸術を生きている人間は、多くがそこで人生を懸け、命を懸けて、営々と頑張っています。
現状の展開は作品や作家に対してあまりに失礼であるし、無責任とみる人もいるでしょう。
引用したいところはいろいろあるが、ここに結局尽きている。
ネット雀のおしゃべりを見ていて、総じて芸術をなめてるとしか思えない。あんたたち、人の人生、なめとるだろう。
政治と芸術の関係について、あるいは日本の状況について、ナイーブすぎることを言っているのが多すぎる。なんっちゅう素朴な認識で今まで生きてきているのか。
脅迫される側と脅迫する側なら、脅迫する側が悪いに決まっているとか、信念を貫いて周りを巻き込むようなのはイヤだとか、そういう大人らしい賢しらを言っているのも論外。話にならない。
南京大虐殺のオペラがあるが、新国立劇場でやれるものならやったらいいと私は思う。やると決めたら、あらゆる準備をして、どういうクレームが来ても跳ね返す気でやり通す。それができないならやらない。実際、ドイツで上演できても、日本で上演はない。日本は昔から(今だけじゃない)そういう国だし、そういう状況だ。そういう認識がない、ナイーブすぎる人間が多すぎる。
やるなら腹をくくってやる、やらないならやらない。腹をくくれないなら、最初からやらない。
炎上まで計算済みで、被害者面して「問題提起になりました」では、芸術を侮辱しすぎ。
これを一旦決裁した役所の人間は、一旦決めただけでも公務員のわりによくやったと誉めようかとちょっと思ったが、たぶん、話題作りとか動員人数を稼ぎたいとか、そういう下らないことしか考えてないはずで、到底誉められない。考えてるなら、最初からあの人選はない。
この一件だけではなくて、他のことにも通低している態度。現実に対して、なめすぎ。
みんな、普段どんだけ気ぃ抜いて、油断して、ぼんやりして生きてんの。
芸術以外も、いろいろなめてる人間が多すぎる。いろいろ見込みが甘すぎる。
おしゃべりは目の前の現実を変えん。現実に向き合うこととおしゃべりは違う。ふざけとるんか。
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私はこのブログではいい加減なことしか書かないことにしているし、ここだけでなく、ネットではそうなので、だから自分でダメだと思ったら削除したりいろいろしている。面倒くさければ、削除もしない。
ただ、政治や、政治に関わる言説、その運動は命がけでなければならない、そういうものだと思っている。だから、リアルでは命がけで「私はこう思う」とものを言う場面がやっぱりある。
誰が何と言おうと自分はこうだと思うからそのように実行するというのは、命がけだから可能だし、命がけだから説得力を生む。
他方で、命がけになるには、それなりの準備や過程も当然必要とするだろう。
事前の勉強も準備もない命がけは、単に思い付きの蛮勇や愚行でしかない。
準備をいくらしても命がけの覚悟がなければ、なんにもならない。
口先であれこれ言って、御身大切が当たり前では、政治なんてできないはずだと思うが、安全が当たり前になってしまうと、本当は命がけでないと何もできないのだということを忘れてしまう。
そういうことを、よく考える。
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参議院の介護負担は、実は逆効果になるかもしれない — 山中 康弘 – アゴラ
やはり、障害当事者として、すべての障害者が働ける社会にしてほしい。
この記事の筆者は大学院にも進学して働いている人だ。こういう人は分かる。
私は思う。障害があっても働ける人はまだよい。
しかし、そもそも働きようがない人はどうしろというのか。
私はただちに、絶対に働けない、働きようがない障害を抱える同年代の知人たちの顔が浮かぶ。
この人たちは働けないので、やはり劣等なんだろうか。本人たちのリハビリに対する努力不足なんだろうか。そうだとすれば、随分、残酷な立場だろう。
そうではなくて、働けなくても、生きることに意味があるのだから、まずそこから議論を始めようというのが、あるべき姿勢のはずだ。
私は、当事者だから信用のできる議論ができる、そういう保証があるとは、必ずしも思わない。
どうして、この界隈には、不可能を可能であるかのように言う人がこんなにも多いんだろうか。
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私は、生活保護を受給している人たちの顔を思い浮かべる。毎日女を変えてデートに忙しいヒモのおっちゃん、そのヒモのおっちゃんのことが好きなおばちゃん、やくざ稼業から足を洗った彫りを体中に入れたおじいちゃん、クスリの売買で小金を稼ぎながら本人もヤク中のお兄ちゃん。
精神疾患を抱えている人たちの顔も浮かぶ。
この人たち、普通はどういうふうに思われてんのかな。いろんな問題をそれぞれ抱えてて、中には警察沙汰になるような人もいるとはいえ、でも生きてるだけで十分なんだけど。。。
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れいわ2議員の国会内での介護費用、参議院が負担へ:朝日新聞デジタル
このあたりが落とし所だろうと思った。
しかしこの記事でもやっぱり気になるのは、なんで重度障害の人をわざわざ働かせる方向に持っていこうとする記事を書くのかで、これが分からない。
今の世の中、いろんな働き方があるし、意欲があって物理的身体的に大きな無理なく可能な人は全くいいと思うけれども、別の記事でも「重度障害の人も気楽に働けるように」という見出しを見た。「んなもの、気楽にできるわけないやろ」としか思えない。こういう流れは全く気にくわない。
こういう見出しを簡単につける人は、周りの人の苦労を考えたことが本当にあるんだろうか。可能と不可能をきちんと峻別して、不可能なことをやれと言ったり、一部の人に負担を押し付けたりするようなことを、本当にしないだろうか。
社会参加の形は、仕事をすることだけではない。話はまずそこからのはずで(しかもこれは、障害の有無に関係がない)、そういう認識が広く持たれることの方がより重要だろうと私は思っている。