一騒動起こして、問題提起だとかいう手法、それ自体がダメだとは思わないけれど、もうそれいいから。ほんと、もういいから。それで宣伝すんの、やめてほしい。

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炎上すべくして大炎上「あいちトリエンナーレ」 京アニ「誤解」につながる少女像展示はポストトゥルース政治(6/6) | JBpress(Japan Business Press)

 芸術を生きている人間は、多くがそこで人生を懸け、命を懸けて、営々と頑張っています。

 現状の展開は作品や作家に対してあまりに失礼であるし、無責任とみる人もいるでしょう。

引用したいところはいろいろあるが、ここに結局尽きている。

ネット雀のおしゃべりを見ていて、総じて芸術をなめてるとしか思えない。あんたたち、人の人生、なめとるだろう。

政治と芸術の関係について、あるいは日本の状況について、ナイーブすぎることを言っているのが多すぎる。なんっちゅう素朴な認識で今まで生きてきているのか。

脅迫される側と脅迫する側なら、脅迫する側が悪いに決まっているとか、信念を貫いて周りを巻き込むようなのはイヤだとか、そういう大人らしい賢しらを言っているのも論外。話にならない。

南京大虐殺のオペラがあるが、新国立劇場でやれるものならやったらいいと私は思う。やると決めたら、あらゆる準備をして、どういうクレームが来ても跳ね返す気でやり通す。それができないならやらない。実際、ドイツで上演できても、日本で上演はない。日本は昔から(今だけじゃない)そういう国だし、そういう状況だ。そういう認識がない、ナイーブすぎる人間が多すぎる。

やるなら腹をくくってやる、やらないならやらない。腹をくくれないなら、最初からやらない。

炎上まで計算済みで、被害者面して「問題提起になりました」では、芸術を侮辱しすぎ。

これを一旦決裁した役所の人間は、一旦決めただけでも公務員のわりによくやったと誉めようかとちょっと思ったが、たぶん、話題作りとか動員人数を稼ぎたいとか、そういう下らないことしか考えてないはずで、到底誉められない。考えてるなら、最初からあの人選はない。

この一件だけではなくて、他のことにも通低している態度。現実に対して、なめすぎ。

みんな、普段どんだけ気ぃ抜いて、油断して、ぼんやりして生きてんの。

芸術以外も、いろいろなめてる人間が多すぎる。いろいろ見込みが甘すぎる。

おしゃべりは目の前の現実を変えん。現実に向き合うこととおしゃべりは違う。ふざけとるんか。

私はこのブログではいい加減なことしか書かないことにしているし、ここだけでなく、ネットではそうなので、だから自分でダメだと思ったら削除したりいろいろしている。面倒くさければ、削除もしない。

 

ただ、政治や、政治に関わる言説、その運動は命がけでなければならない、そういうものだと思っている。だから、リアルでは命がけで「私はこう思う」とものを言う場面がやっぱりある。

 

誰が何と言おうと自分はこうだと思うからそのように実行するというのは、命がけだから可能だし、命がけだから説得力を生む。

 

他方で、命がけになるには、それなりの準備や過程も当然必要とするだろう。

 

事前の勉強も準備もない命がけは、単に思い付きの蛮勇や愚行でしかない。

 

準備をいくらしても命がけの覚悟がなければ、なんにもならない。

 

口先であれこれ言って、御身大切が当たり前では、政治なんてできないはずだと思うが、安全が当たり前になってしまうと、本当は命がけでないと何もできないのだということを忘れてしまう。

 

そういうことを、よく考える。

参議院の介護負担は、実は逆効果になるかもしれない — 山中 康弘 – アゴラ

 やはり、障害当事者として、すべての障害者が働ける社会にしてほしい。

 この記事の筆者は大学院にも進学して働いている人だ。こういう人は分かる。

 

私は思う。障害があっても働ける人はまだよい。

 

しかし、そもそも働きようがない人はどうしろというのか。

 

私はただちに、絶対に働けない、働きようがない障害を抱える同年代の知人たちの顔が浮かぶ。

 

この人たちは働けないので、やはり劣等なんだろうか。本人たちのリハビリに対する努力不足なんだろうか。そうだとすれば、随分、残酷な立場だろう。

 

そうではなくて、働けなくても、生きることに意味があるのだから、まずそこから議論を始めようというのが、あるべき姿勢のはずだ。

 

私は、当事者だから信用のできる議論ができる、そういう保証があるとは、必ずしも思わない。

 

どうして、この界隈には、不可能を可能であるかのように言う人がこんなにも多いんだろうか。

 

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私は、生活保護を受給している人たちの顔を思い浮かべる。毎日女を変えてデートに忙しいヒモのおっちゃん、そのヒモのおっちゃんのことが好きなおばちゃん、やくざ稼業から足を洗った彫りを体中に入れたおじいちゃん、クスリの売買で小金を稼ぎながら本人もヤク中のお兄ちゃん。

 

精神疾患を抱えている人たちの顔も浮かぶ。

 

この人たち、普通はどういうふうに思われてんのかな。いろんな問題をそれぞれ抱えてて、中には警察沙汰になるような人もいるとはいえ、でも生きてるだけで十分なんだけど。。。

れいわ2議員の国会内での介護費用、参議院が負担へ:朝日新聞デジタル

このあたりが落とし所だろうと思った。

しかしこの記事でもやっぱり気になるのは、なんで重度障害の人をわざわざ働かせる方向に持っていこうとする記事を書くのかで、これが分からない。

今の世の中、いろんな働き方があるし、意欲があって物理的身体的に大きな無理なく可能な人は全くいいと思うけれども、別の記事でも「重度障害の人も気楽に働けるように」という見出しを見た。「んなもの、気楽にできるわけないやろ」としか思えない。こういう流れは全く気にくわない。

こういう見出しを簡単につける人は、周りの人の苦労を考えたことが本当にあるんだろうか。可能と不可能をきちんと峻別して、不可能なことをやれと言ったり、一部の人に負担を押し付けたりするようなことを、本当にしないだろうか。

社会参加の形は、仕事をすることだけではない。話はまずそこからのはずで(しかもこれは、障害の有無に関係がない)、そういう認識が広く持たれることの方がより重要だろうと私は思っている。

国会議員の介助の費用は、れいわが持つべきじゃないかな | 弁護士早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

介助を要する重度障碍者の方が職に就いて収入を得るようになると、国費をもって介助者を付けるという措置が停止になるということは知らなかったので、これを何とかしてもらいたい、というのは一つの重大な問題提起ではある。

「知らなかった」というわけではないはずだと思う。普通、こういう障害者の受給資格の認定はそれなりにやるはずで(税金を使うんだから当然だ)、条件を知らなかった訳がない。

最初から分かっていることなので、極めて杓子定規に考えれば、では最初の申請はなんだったんですかという話になりかねない。

もちろんこれは極論で、今回の場合はうまい工夫をするんだろうが、普通の人が同じことをやったら、世間もどういう反応になったやら。

こういうのが社会の前進だとは、私には思えない。いいことだとも思わない。

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私の身の回りのことを考えても、障害のある人本人というより、周りの人のやり方に辟易することがある。私はそれがいいやり方だとはまったく思えないし、それで世の中が良くなるとも思わない。というのも、辟易させられて観念した人が結局、いろんな苦労を背負いこまされるだけで、他の人は知らんふり、という結果が目に見えているからで、それは社会の前進とは言わない。

できないものはできないという時も、かなりはっきり言葉や態度で示さないといけなくなることもある。好き好んでそうやっているわけではない。

このところ医療の世界を垣間見ていることもあるけれど、子供の時から私はこういうことにかなりうんざりしており、子供ながらに世間の無責任ぶりに呆れたものだ。知らないうちにいい経験をしたと今は考えているが、たぶん、そういう経験を持たない、幸せな人が世間には多いのだろう。

https://twitter.com/tsuda/status/1155458427012804608

津田大介@tsuda
これで制度が即座に変わったらそれだけでも彼らが国会に行く意味はあったということだな。

臨時国会に「登院できない」重度障害者への制度の壁

記事を読んでも「登院できない」理由が私には理解できない。

 

仕事ができないことを理由に行政の訪問介護サービスを受けているのに、仕事を始めてしまうのでこれまでの介護サービスが受けられない、というのは当たり前の話だ。

 

そこの原則を矯めると、たとえば公平性の問題などが出てくるのではないだろうかという疑問をただちに思いつく。

 

「登院できない」理由が分からないというのは、介護サービスは別のものに切り替えたり、私費で賄えばいいのではないかと思うので、登院できないのではないのだろう。

 

現実にどういうふうに話を落とすのかはよく分からないが、これで「彼らが国会に行く意味があった」とは私には思えない。

 

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障害者を議会に送ることそれ自体は、特に珍しいものとは思わない。国際的にはドイツのショイブレ財務大臣は記憶に新しい。トレードマークとなっている車いすで、EU財務相会議ではいつも怖い顔をして、目を光らせていたものだ。

 

日本でも八代英太車いすの議員・大臣として有名で、八代は重度障害者が国会議員になることに好意的なコメントを出している。


以前の参議院選挙で、自民党乙武洋匡を候補にしようとしたことがあった。私はこの人が出始めたときから全く敬遠しており、障害の程度・有無とは関係なく批判的なのだけれども、たぶん、議員が務まるギリギリがあの人あたりではないか。それでもどうかと思う、正直言って。

 

その自民党ですら、それ以上の障害や疾病を抱える人を選挙用の目玉に擁立はしなかった。

 

ただし、山本太郎がやったことを、仮に自民党がやれば、いま批判的な連中には無理矢理擁護支持しまくる輩がうじゃうじゃ出てくるのだろうと想像するだけで不愉快である。

 

無論、その反対側についても同じ。

 

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党派的に批判する人たちは論外として、いわば当事者の立場から疑問の声がネットには上がっており、実名による記事ではない点を差っ引いたとしても、私は基本的にこの人たちに同感だ。それは一応私なりの理由はある。

 

この数年、私は思いがけず医療の世界と付き合うことになって、医者の苦労(と悪いところ)がなんとなく分かってきたところだが、難しい問題の一つは重い障害や重篤な疾病、精神疾患を抱える患者さんの受け入れについてだ。

 

患者さんの疾病障害の程度や、医者の専門分野、治療内容にももちろんよるが、私の関わっている世界では、重度の障害や重篤な疾病を抱える患者さんたちは、開業医からほとんど診療を断られているのが実態だ。(ひどいケースでは、つい最近、大学病院からほったらかしにされているのではないかと疑われる人がいた)

 

理由は障害者差別である場合もひょっとしたらあるのかもしれないが、まず100パーセント、万が一の場合の責任を負いきれないからだ。リスクが大きすぎるのである。

 

かつ、治療内容によっては、医師の身体的負担が大きすぎる点も挙げることが可能だ。

 

また、患者本人や医師のみならず、その医院で働く人たちの安全も当然に考えなければならない。医院で働く人たちは、様々な危険にさらされている現実がある。

 

そのため、いかに設備が整っており、バリアフリーもばっちりで、介助・介護の方がおられるにしても、大きな病院でもない限り、診療を断らざるを得ない場合がある。

 

と書くと怒りだす人がいるに違いないが、ちょっと待ってもらいたい。そういう医者を批判・非難することは容易なのだが、私には「それでも診療しろ」と主張する人たちの方がはるかに無責任だと思わざるを得なくなっている。

 

これに対しては、たとえば保険点数を特別に上げるなどの措置は当然考えられるところで、カネさえもらえればやる医者もいるにはいるんだろうけれども、どんなにカネを積まれても、無理なものは無理だ、別のところに行ってくれと言う方がはるかに良心的で、私が医者だったらそう言うよな、という場面はたびたびある。

 

もちろん、病院と議会では何もかも違うので、同じように論じられない。

 

しかし、バリアフリーは完璧で、人員も整いやすい、普通のそこらの病院でこうである。万が一の時のことを考えて動くのが当然だと私は思うのだが、

 

ネットを見ていると、あれだけの障害や病を抱えている人たちなのに、そういうことを考えて反応している人がどれくらいいるか、大変に心もとない。

 

山本太郎とそのブレーンたちは、そこまで考えているんだろうか。

 

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もう一点は、負担などのしわ寄せを一部の人に押し付けるのは間違っているということで、これはmachinery さんの記事を引用する。

 

machineryの日々 障害者と国会議員の役割

国会をバリアフリー化するというのは、一部に負担をしわ寄せすることではなく、全体の負担を減らしつつ、それぞれ少しずつ負担し合って個々の負担を減らすことであるべきと考えますが、そこまで議論がすすむのかは極めて疑わしいと思われます。

この言葉に尽きている。

 

私は、健常者たちがカネも手も出さず、他人に負担を押し付けておいて、あとは知らんふりか、せいぜいその障害者が何かやったときに感動して喜んでいるだけの場面を、ウンザリするほど見てきている。

 

私たちが問われているのは、日常の場面において、障害や疾病の程度の軽重に関わりなく、ハンディのある人たちに対してどう向き合うかであり、具体的にどういう行動をするかだ。普段何もしない人たちが、国会の様子をみて感動したって、私は

 

「そりゃあよかったですね」

 

としか言いようがない。普段、妊婦にすら席を譲らない人たちが何を言っているのかと。

 

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八代英太は同じ障害者としてエールを送っているが、しかしその彼にしても、

 

元祖車いす議員・八代英太氏が語る、重度障害者が国会に行く「意義」 : J-CASTニュース

「それが選挙戦略であってほしくないと思う」

とくぎを刺している。

 

しかし、実際のところ選挙戦略にしか見えない。 障害者の声を直接議会に届けるためには、何もあんな重い障害や病気を抱えた人でなければならない必要性も必然性もどこにもなかったからだ。

 

私は、やはり次の問題を、特に政治家の人たちはもっと真剣に考えて欲しいと思っている。

 

参院選を終えて: 石破茂(いしばしげる)ブログ

  島根出身の自民党候補である三浦氏は、今回導入された「特定枠」によって比例名簿上位に搭載されて最初から当選が確実視されたものの、自分の訴えも出来ず、投票用紙に名前も書いてもらえないという摩訶不思議な選挙活動しかできなかったこともあり、島根の投票率も過去最低となりました。

この「特定枠」がおかしいという指摘をあまり見ない。もちろん鳥取石破茂がそれを言うかとは思えども、しかし国会議員も「摩訶不思議な選挙活動しかできない」と言い出す「特定枠」とは何なのか。

 

八代英太だって、いくらテレビの有名人とはいえ、最初は参議院の全国区で80万人以上の人に自分の名前を書いてもらっているのだ。

ポピュリズムポピュリズムと言われ過ぎると、なんでもそういうレッテルを貼る形になるため、何を言いたいのか具体的に言うべきだという話を見た。

これは非常によくわかる話で、今の話に簡単にファシズムだのヒトラーだの言うのはおかしいと、このブログでも何回か書いたが、それと同じことだ。

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ポピュリズムの定義なんぞもちろん私なんかにはさっぱり分からないわけだが、今ならネットの利用を考慮にいれる必要があるんだろう。

いつも言うように、古くは人権擁護法案反対運動はネットを利用した政治的扇動・動員だった、と私自身はそう信じている。

今ではたとえばイタリアの五つ星運動の動員の仕方はきっと検討のし甲斐があると思う。あれはマーケティングを完全にやっていて動員している。

今は恐ろしい時代で、人それぞれに欲しがりそうなものの宣伝が個人にダイレクトにできるようになっている。それが単なる商品であればまだしも、政治的動員のためにマーケティング・宣伝の高度な手法が利用されているとなると、それって本当に政治なの?と私なぞは思ってしまう。

一日中スマホを眺めている人が少なくなく、それだけ動員・扇動のための宣伝は効くのだろうが、宣伝される方から言えば、これは立派な洗脳だろう。

ではどうするかと考えても、私にはとても答えは出せないわけで、とにかく、こんなことで本当にいいのだろうかとは常々考えてはいる。