このところ選挙の度に、投票先がなくて棄権するしかないわたしは、本来ならば自分が政治家になるのが誠実だと思うが、それはしんどいし、いきなりはできない。

だからまず、身の回りの小さな世界を整えて、その小さな世界だけでも守りたいと思っている。大きくなるならば、自ずから大きくなるだろう。

青年会議所なんぞが、国がダメになると我々の生活がダメになる、だからまず国にしっかりしてもらわないといけない云々と、露骨な国家主義を訴えて平気でいるが、似たような感覚を当然のものとして持っている人はたぶん多い。

しかし、国が破産しようがどうだろうが、私たちはそれとは関係なく生きていかねばならない。

普段そういうことを考えながら、生きている。

政治の話は、せいぜいその次の話でしかない。

それでも、愚にもつかない繰り言を、延々とここに書いているわけだが。

小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:サマーズ、スティグリッツのMMT理論批判が誤っている理由

財政赤字が削減できないのは、少なくとも先進国では日本だけで、EU加盟国はGDP比3%以下という条件を多くの国が達成しているし、それぞれの国内に批判はあるものの、最終的には実現するか、実現する方向へ向かった。あのイタリアですらそうなのである。 

 小幡績の議論そのものはちょっと置いておいて(いつも私はそのつもりで眺めるんだけれども)、イタリアも財政規律を守らざるを得ない状況になっているというのは、事実だ。

 

もちろん、批判は大いにある。予算編成でいつももめる。必ずブリュッセルから注文が付く。

 

それでも、結局、「3%」を外れて予算を組むことはできない。

 

イタリアで今の政権が誕生して、日本のtwitter で「イタリアでも財政を出す政権ができた!」と書いている人を見かけたが、とんでもない話で、ポピュリズム政権ができても結局こういうことになってしまうのだ。

 

その大きな理由は、国債が売り込まれるとイタリアの財政が持たずに破たんしてしまう、イタリアが破綻するとユーロ圏が破綻する、そういう恐怖をほんの7年8年ほど前に経験しているので、今の政治家はどんなに口では無茶を言っても、実際のところは限度を超えられないでいる、ということなのだと思う。

 

もちろん、日本とイタリアは背景が全く違う。財政規律については議論も大いにある。他方、EUからイタリアが受け取る予算もあるだろう。

 

私が言いたいのはそういうことではなくて、ひるがえって日本でイタリアのような財政運営をしようと思ったら、どうなるか。

 

日本で財政赤字GDP比3%以下になったのは、リーマンショック以後一度もなく、それ以前も、2006年、2007年に若干割込めただけだ。

 

イタリアがどういう予算編成をしているのか、推して察することができようというもので、日本はそういうことをしていない。

 

そういうわけで、私の目から見ると、

 

「日本人って、舐めたこと言ってるなぁ」

 

としか思えなかったりする。

ポピュリズムを経済要因だけで語ることができるかというと、きっとそうではないのだろう。

 

ファシズムが経済要因だけでは説明できず、他の社会的・文化的・心理的背景(時に文明史的背景)を考慮に入れないといけないのと同じことだ。

 

逆に経済要因だけでもなんとかしたら、ファシズムにはならなかったかというと、これがよく分からないが、ファシズムにならなくても、なんか別の変な事態になっていたんじゃないか。ようは、経済問題だけで云々できるほど、単純な問題ではない、ということは言えそうに思っている。

 

・・・

 

ポピュリズムというとすぐ、ドナルド・トランプとかBrexitとかとイメージが直結して、たとえば「排外主義」といった要素が直ちに思い浮かぶ。つまり、右派による扇動というわけだけれども、ポピュリズムは必ずしも右派のものだけではない。

 

イタリアの五つ星運動は立派なポピュリズムだと思うが、あれは右派のものかと言うとそう簡単に言えなくて、左派に近い部分もある。

 

五つ星運動で面白いのは、むしろそういう政治的党派性の色合いを表向き薄めて、「市民”cittadino”」を前面に押し出したところがポイントだったように私は思っている。だから、右でも左でも、世間に受けさえすれば何でも来い、という面がある。

 

逆に右でも左でも、既成の政党は基本的に断固拒絶する。だからベルルスコーニはもちろんのこと、民主党とも連立はできない、という話になる。

 

あとイタリアの文脈では、たまにこの種の政治団体が噴出することがある。戦後直後にもそういう運動があったし、ベルルスコーニが政治家になったときに「一代で財を成した叩き上げの実業家」というのが大きなセールスポイントになったのは、「非職業的政治家」だからで、これもやっぱり同じ文脈で考えられるんだろう。

 

いずれにせよ、ポピュリズムというのは、右派に限ったことではない。左派もポピュリズムがあるわけで、そこを無視すると、やっぱり党派性に堕した下らない議論になってしまうんじゃないかと思う。

私はポピュリズムが大嫌いで、「もっと真面目にやらんかい!」といつも思うのだが、左派ポピュリストが障害者を担いだ件は、みんな本当にどうかしていると、腹立たしい思いが拭い去れないでいる。

 

ネットで一番言われているのは、

 

「それでも、国会が障害者対応でバリアフリー化するだけでもすごいことだ」

 

と「功績」として認める人が少なくないことだ。これは全く間違っている。

 

まず第一に、今までに車いすの議員も大臣もいた。だから、その程度のバリアフリー化はすでに達成されているはずだ。

 

第二に、ハード面でバリアフリー化したとしても、身体に重い障害のある障害者や重篤な病気を抱える人を受け入れられるかどうかは、全く別の話だということがほとんど理解されていない。

 

障害がある人には、その障害の部分さえカバーしてやったら健常者と同じように活動できるという人もいるだろうが、左派ポピュリストが担ぎ上げた人たちはそういう次元を超えている。

 

私は身の回りの問題に向き合っていて、施設が完璧にバリアフリー化しても、受け入れられないものは受け入れられない、できないものはできないと、はっきり断らねばならない場面があるということを知っている。

 

介助・介護が付けばそれでいい、という問題ですらない。特にALSの患者さんは、今後進行することも考えられるわけで、そうなる時にどこまで議員としての職務が全うできるのだろうか。

 

仕事以前の問題として、たぶん生きることそれ自体が大変になってくるのではないかと思うが、どうだろう。

 

いずれにせよ、ハード面の改善や、介助人をつけさえすればよい、という安易な発想は無責任にすぎるし、それをもって「功績」とするのは論外だとしか言いようがない。

 

第三に、「障害者」というだけで下駄をはかされすぎているということだ。

 

障害のある人たちの苦労が大きいのは分かる。いろんな現実があってそれを直接国政に伝えるべきだというのも理解できる。

 

しかし、そのことと、障害がある人が議員にふさわしいかどうかは全く別問題だ。

 

無論、今後をよく見ないといけない問題には違いないが、世間では「障害者」と言うだけであまりにも無条件に甘くなる。それに私は全く反対だ。このことは以前も書いた。

 

最後に、結局、障害者を利用しているだけではないかということに尽きる。

 

本人が納得しているからいいではないか、という意見が分からないわけではないが、それは障害のある人に対して真面目な態度ではないと健常者である私は思う。そういう態度は私は絶対に取りたくない。

 

・・・

 

「障害者」というだけで感激する人間が多いのに、私は白けた思いをしている。

 

しかもこれが、左派の所業なので、いくら何でもこれはないだろうとしか言いようがない。

 

右派のポピュリズムに私は明確に反対するが、左派のこのような所業にも全く反対だし、ポピュリズム競争をこれで加速させてどうするのかと思う。

 

日本にも、ポピュリズムや、有権者が甘やかされている状態をもっと批判する人がいてもおかしくない。ポピュリズム競争で、まだましな方を選択しろと言われても、私はそんな選択をする気は一切ない。

 

かつて冷戦時代に、インドロ・モンタネッリが、「鼻をつまんででも」DCに投票しようと書いたことがあったように思うが、私はそこまでする気にすらならない。

政治家とも行政とも密接に関係している、日本を代表するはずの企業が、暴力団とズブズブだ、ということがあまねく知れるということは(最初から知れているにしても)、普通に考えるとその時点でその会社自体がどうにかなってもおかしくない。

 

倫理的には実際、そうなるべきだと思うが、そういう問題が一切合切、反故にされてしまっているようにしか見えない。

 

もちろん、これでいいわけがないんだが、これに手を貸しているのが実は、

 

「麗しき芸人仲間の連帯」

 

や、

 

「追い詰められた男たちの窮余の一策に感激する周囲」

 

だったりする。

 

もちろん、反故にした方が都合がいいからこうなっているわけで、その都合の良さは何も当該企業にだけ当てはまるわけではない。

 

かくして、倫理的な問題を完全に忘却の淵においやってしまっているのだが、こういう話が今の日本にはあまりにも多すぎる。

 

倫理観念にあるはずの骨のようなもの、この一線だけは超えてはダメだ、あるいは超えるべきではないのではないかという感覚がなく、ぬかるみのように、どこまで行ってもズブズブだ。

 

・・・

 

私たちは生きている中で、日々、一瞬一瞬、何らかの倫理的な問題に常に問われており、瞬時の判断をその場その場で行っている。

 

法的な問題はさて置き、私たちの社会の倫理観念はどうなっているのかが、こういう場面で出てくるのだと思う。それは森友問題でもそうだった。法的にはともかく、首相が、騙されたと言い切ってそれで許される倫理観念とは何か、私にはまったくついていけなかった。

 

私は芸能問題に興味を持たないが、私たちの倫理観念の一つの現れとして、ことを眺めている。政治が明らかに関係しているわけで、私たちの税金の使途の一つがここだという認識を、もっと持つべきではないか。

 

私の身の回りは、ヤクザも部落も抜きにできない環境だ。だからこそ、他人事としてとらえられないでいる。

前々からよく分からないのが、日本の首相が維新の会とつるんでいることと、吉本興業と密接な関係を持っていることで、この二つの要素は基本的に同じ線で考えるべきものと思っている。

 

これに森友問題も重なる部分もあるわけだが、まあろくなものではない。

 

あらゆる情報が集まるはずの首相が、何も知らなかったなどと無責任なことは言ってはならないと思うし、言わせていいわけがない。本当に何も知らない、分かってないのであれば、愚かにもほどがあるとしか言いようがない。

 

・・・

 

私が気になるのは、本当は表に出てきてはいけない人たちの、日本語の使い方や感覚、倫理観念や上下関係といった目に見えないものに関することで、こういったものは、ごくごく普通の人たちとは一線を画するべきものだろう、と私は思っている。

 

先日来、大騒ぎになっている吉本興業の話など、メディアに大物然として出てくる人の出身が部落なので、振る舞いが完全にそういう地域の人の振る舞い方のまま、無批判に垂れ流されてしまっている。

 

それ自体に問題はないが、これはかなり特殊な世界の人たちの間で通用するべきものであって、一般の人たちと無関係のことだということをよくわきまえるべきではないか。


これらの諸々は、網野善彦流に言えばまさしく「異形」で、それが普通の顔、当たり前の顔をしているどころか、むしろ称賛される気配すらあるわけで、おいちょっと待てと私なぞは思う。

 

「異形」が「異形」であるには、「異形」ではない部分が厳然と存在しないと「異形」にならない。

 

昔は、興行とやくざの関係などは当たり前のことで、今NHKに普通に出ている、善人然としたある落語家など、30年以上前には暴力団の宴会に営業で出た話などを大阪のテレビでしていて、大いに笑いをとっていた。見ているほうも、それはそういう世界のものという線引きがあったものと思う。

 

その線引きがあやふやになっているうえ、ただの芸能事務所が日本を代表する企業然とした顔をしだしたために、余計にややこしい話になっているらしく、それはそれで大きな問題だが、それとは別の問題として、本来線引きが必要な世界が、メディアを通じてどんどん普通の世界に浸透しつつあるのではないかと思う。これがどうして問題視されないのか、私にははなはだ疑問だ。

 

ネットでは吉本興業が教育事業を展開しようとしていたという話があり、ああいう人たちが教育に手を出して、どういう子供が育つか、想像するだに恐ろしい。まさにファシズム全体主義との親和性がああいう世界は高いからだ。(森友問題を思い起こすべきだろう)

 

今の日本のソフトな、あるいはマイルドな全体主義っぽさを確実に醸成・促進しているものにはいろいろな要素があると思うが、その一要素は、ここにもあるように思う。

 

芸能、その背後にある世界と政治の世界との関係について、もっと敏感になるべきではないか、このところそう考えている。

 

・・・

 

維新の会のあの下品さ、吉本の「こてこて」な感じも、どちらも大阪を代表するものではない。せいぜい、大阪という土地柄のごくごくほんの一部でしかない。

 

大阪というところは、本来はもっと上品なところであって、だからこそ(今はどうだか知らないが)文楽のような本当に偉大な芸術を生むことができた。上方落語一つとっても、3代目春団治、5代目文枝といった名人たちは腹を抱えて笑わせてくれても、品は失わない人たちだった。それが大阪という土地柄のはずだ。

 

それなのに、一番ダメな部分がこういう形で政治と関わり合うようになってしまっていることに、私なぞには本当に残念だし、所詮大阪の話と片付けるのではなく、よほど警戒する必要があると思う。

 

木村幹のTwitterをよく見ていると書いたが、木村は日本も韓国も外交が下手だと書いている。きっとそうなんだろうと思う。

 

私は、自分に対して甘い態度をとるのは気持ち悪いと思うので、自分が日本人である以上、日本の右翼が言うような甘い態度はとりたくない。ああいう主張をするのであれば、戦後に日本が稼いだ金を全部吐き出して、日本人全員が飢餓で死にそうになるような状態に戻ってからものを言え、と思う。
 

と言って、安倍内閣を批判するために、過度に韓国の主張を是とするのもいかがなものか。私は詳しいことはよく分からないが(そもそも私には韓国語が全く分からないし)、理解の難しい反応をしていることはおそらくそうで、それは木村のTwitterや彼がRTする専門家筋の様子をうかがっていると察せられる。

 

なので、このところ、安倍内閣を批判するための対比として、韓国は正しい、とてつもなく日本より上だと、ざっくり言えばそういう意見をいう人たちをよく見るが、少なくともその種の意見には無理があるように思う。これも、隣国理解の難しさを端的に示している。

 

結局、その難しさということをまず理解することが大事なんだろうと、私なぞは思う。