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お父さんが政治家だから、コネで田舎の医科大学に行き、
国家試験は実力で突破していると思いたいが(昔のことだからそれも怪しいような気もする)、
お父さんが政治家だから、旧帝に就職して、
お父さんが政治家だから、留学して、留学したから教授になれて、
お父さんが政治家だから、政治家とコネクションができて、
お父さんが政治家だから、選挙に勝ってしまう。
ひどい場面を見てしまった。本人の演説も、素人だから仕方がないという以上に、知性を感じないレベルだった。こんなことでいいわけがない。
当人、どういうつもりで生きているのだろうか。私にはよく分からない。
もっとも、対立候補も人望のなさが際立っていたのだが。
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前回書いたように、中学レベルの勉強がちゃんとできない子供が平均的であって、こういう子供が高校に行って何を勉強するのか分からない。(もっとも、もうちょっとレベルの高い高校に行く子供は問題ないかと言うと、決してそういうわけではなく、あきらかに3年間でこなしきれない勉強量をやらされていて、消化不良を起こしている場合が少なくなさそうだけれども、これは別問題)
平均的な子供が高校に行って、その子によるけれども大学に行けてしまう。
では、中学レベルの勉強ができない子供は高校に行くべきではないとしよう。理屈を言えばそのほうが筋だ。
ところが、そうすると半分程度の高校はおそらく廃止することになるんじゃないかと思うし、当然教師の職もなくなるだろう。
それにつれて、大学の数も激減するだろう。つまり、大学職員や教員の職も大きく減少する。
ここまで考えは進むが、これ以上は分からないので、なるほど難しい問題だなあと嘆息する以外になくなる。
ネットには大学の先生が多いし、苦しい状況なのはよくわかるうえ、私のような人文系の学問が好きな人間にとっては悲しい現実がいろいろあるわけだけれども、
子供の現実から考えてみると、大学の先生の言い分も勝手なものだという感じをどうしても抱く。やむを得ない。
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以前も書いたように、高校数学の必修範囲を検討するという話が出ると、私はわりに好意的に見るほうなのは書いたことがある(繰り返すが、文系人間の私は高校の時は数学が好きだった)。個人的にはもっと国語をやるべきだと思っている。国語がいい加減だと数学も理科も社会も何もできないからだ。国語がいい加減で、ろくに古文も漢文もやらないものだから、ほらご覧、新元号だって、、、というのは余計なことだった。
ネットには大学の先生や、それなりに勉強した人が多いので、必修範囲の見直しのような議論に対して非常に批判が出る。
現実を見た場合、たとえば私が住む地域では、偏差値50近辺の高校に行く子供がどの程度中学数学ができるかというと、四則演算と、あとは本当に初歩的なものがちょっとできる程度で、方程式を立てることも1次関数もたいしてできなくても、入学試験には通る。
この場合は平均並みの高校と言っても下限かもしれないが、それでも、中学数学がまともにできない子供がだいたい平均並みと考えてよいのであって、これは大人でも同じことなのだろう。
私は、こういう子供たちが高校でなにを勉強するのか、大変に疑問だ。
しかも、こういう子供たちが大学に行きたがったりするわけであって、事実、大学に行けてしまう。
中学数学ができない人間が大学に行ってどうするのか、私には理解できない。
しかし、これが現実で、ことは数学に限った問題ではない。
本当に子供たちのことを考えるのであれば、こういう問題に大人がもっと向き合ってほしいと思う。
これは家庭の経済力の問題ですらない。なぜなら、人間の知性はおおよそDNAで決まってしまっていて、できる子供はほっておいてもできるし、できない子供はどれだけ資本投下してもできないという事実を今の日本の総理大臣が、とこれも余計なことだった。
余計なことは置いといて、現実の子供たちに向き合った時、大人は安易に「もっと勉強しろ」とは言えなくなる。もっと勉強したってできないものはできないのであって、にもかかわらず無理に子供に勉強させることは、単に無茶なストレスでしかなく、人間性と精神が捻じ曲がる結果しかもたらさないことは自明だからだ。
もっと真面目に、子供たちに向き合ってほしい。彼らの将来の幸せを考えてやって欲しい。私はそう、切に望む。
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病院のテレビで、新元号発表騒ぎの一部始終を見た。
ネットでは、新元号の意味や出典などなどについて議論しているが、なんでこれがおめでたいこととされているのかが、テレビを見ていた私には全く理解できなかった。
ハンコ屋さんなど直接的に影響を受ける人たちはともかく、総じて元号から無理矢理ビジネスにつなげたい人たちの話ばかりで、だからおめでたいのかとしか思えない。
多分それに付随すると思うが、なんでマスコミが新元号を必死でスクープしたがるのかがそもそも理解できない。他社に先駆けて新元号を報じようとすることに、どういう意味があるのか。
新元号のために1分1秒を競うことにいったい何の意味があるか。官房長官記者会見を私は見なかったけれど、見なくてもなにも困らなかった。
もっと報じるべき問題は他にいくらでもあるだろう。
そしてこのマスコミの洪水のような報じられ方に、一般の人たちも大きく影響を受けていることがよく分かった。全く無批判のままだ。
元号の問題は、天皇の問題と直結する。ネットのおしゃべり雀たちは一応字が読めて書ける程度の知性があるんだったら、もうちょっと根本的な疑問を持った方がよいのではないかと思う。
天皇のことになると考えがとまって流される空気が私はイヤだ。
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うっかりこういうtweetを見つけた。
https://twitter.com/Uriel625/status/1110878091553857537
2017年:イタリアでワクチン接種義務化⇒https://t.co/VhP1urWZxk
— 🌸Uriel🌸 (@Uriel625) March 27, 2019
2018年:反ワクチン政党によって義務化廃止⇒https://t.co/kpuUgH9bDk
2019年:反ワクチン政権誕生後のイタリアを中心に、麻疹アウトブレイク。アメリカにも飛び火⇒https://t.co/IVvlAmk4RI
🌸Uriel 🌸 @Uriel625
返信先: @Uriel625さん、@joker_sburnさん
2017年:イタリアでワクチン接種義務化⇒https://www.afpbb.com/articles/-/3128922?act=all
2018年:反ワクチン政党によって義務化廃止⇒https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/11/anti-vaxxers_a_23523492/
2019年:反ワクチン政権誕生後のイタリアを中心に、麻疹アウトブレイク。アメリカにも飛び火⇒https://t.co/IVvlAmk4RI
2017年のワクチン接種義務化というのはLorenzin大臣が熱心に導入したものだというのは知っているが、あとの二つがよく分からない。
というのも、アンチワクチングループが非常にうるさい、程度のことなら知っていても、あまりにもバカバカしいので、こんな議論はまともに追っかけていない。でも、義務化を廃止なんて聞いたことがないな。。。
ということで、リンクされている記事を見る。
反ワクチン派の政党が政権をとったイタリアで今、起きていること | ハフポスト
五つ星運動は3月のイタリア総選挙で、ワクチン接種の義務化に反対する公約を掲げて勝利し、2018年8月、ワクチン接種に関する政令を廃止する法案が可決された。
え、そうだったの?と思って調べてみたが、義務化を廃止したという話はどこにも見当たらなかった。これは何のことを言っているか分からないんだが、若干の制度改正はあったようであるけれども、たぶんそのことなんだろう。義務化は廃止していない。(無論、私はイタリアのワクチン事情を追ってないので、間違っていれば教えてもらいたい)
五つ星運動の支持者たちが強いアンチ・ワクチン傾向を持っていたことは間違いなくて、記事にもあるようにベッペ・グリッロも無茶苦茶言っていたように思うが、なにせ関心がなかったので全く記憶にない。
ただ、五つ星運動も全員がアンチワクチンというわけではなく、中に医者がいたりして、必ずしも一枚岩ではない。
この1月、元首相のマッテーオ・レンツィとベッペ・グリッロが覚書を交わしたことは記憶に新しい。それは科学に関するもので、科学は人類の進歩の普遍的価値を有することなど5点挙げられている。
その2点目に、疑似科学や疑似医療を支持しないという項目がありそこに「アンチ・ワクチン主義」が例示されている。
当然、五つ星運動内から裏切りだという声が出たが、グリッロは「自分はワクチンの義務化に反対しただけで、これは政治問題の範疇だが、ワクチン自体には反対していない」と、舌をペロリと出して開き直ってしまっている。
さて次の記事だが。
反ワクチン地域ではしかアウトブレイク。州知事が非常事態宣言(米) | ギズモード・ジャパン
反ワクチン政権誕生のイタリアを中心にはしかが大流行し、上半期だけで4万人以上が感染して死者も出た昨年の欧州に続き
英語版で確認すると、
https://gizmodo.com/measles-outbreak-worsens-in-washington-as-governor-decl-1832087781
"Italy"や"ital"で調べても、反ワクチン政権がどうのという部分は引っかからなかった。ざっくり見ても、そういう部分はなさそうである(見落としかもしれないのであったら教えて欲しい)
ちなみに、イタリアのはしかの患者数は2017年が3501件(
Allarme morbillo, due morti a gennaio)、2018年が2526件(
https://www.epicentro.iss.it/morbillo/aggiornamenti)だそうだ。
つまり、「反ワクチン政権」とはしかの流行とは関係がなかった。
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私は五つ星運動に極めて懐疑的で(このところ五つ星運動の支持率が落ちてきて結構だと思っているが、その代わり北部同盟の支持率が高止まりしていて往生している)、アンチワクチン運動もバカらしいと思っているが、こういうイタリア情報は大いに問題があるだろう。
もちろん、悪いのはtweet主のUrielさんではなくて、こういう記事を書いて、かつ日本語で出している媒体が一番悪い。
特に英語圏からイタリアに関する情報をとるのは注意した方がよいのは以前から書いている通りで、基本的にアルプスから北の連中はイタリアをバカにしているのだが、とりわけ英語圏の人間の偏見はあまりにひどい。それがこういうところに出ているんじゃないだろうか。
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呉座勇一との「議論」(議論になっていないと私は思うが)で、八幡和郎を「実務家教員」という点から呆れる人たちがいる。
私が「実務家教員」の実態をよく知らないこともあって、本当にそういう括りで批判できるのかどうかと思った。
そこで一応確認してみると、八幡は歴史をネタにした本を出版しているものの、歴史学の訓練をそもそも受けていない。東京大学法学部を卒業しただけだ。
今は徳島文理大学の教授だけれども、総合政策学部の教授らしく、シラバスで確認できる。
http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/ichiran.php?ID=8A&year=2018
http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/ichiran.php?ID=8B&year=2018
一応、通商産業省の元官僚という八幡の経歴を考えると、違和感はない。
これだったらいいじゃないかと一瞬思ったが、よく見てみると、歴史も教えているらしい。
http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/sylla_ichiran.php?SUBID=13251&DEPID=8A&year=2018
http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/sylla_ichiran.php?SUBID=12873&DEPID=8A&year=2018
元東大法学部とは言いながら、おっさんの漫談を聞かされる学生もたまったもんじゃないなこりゃ、とは思うものの、歴史学を教えているわけではない。はっきり言ってしまえば徳島文理大学レベルの学生相手なら、この程度の漫談でも、あるいは十分かもしれない。学生たちは中学校の日本史レベルの知識が怪しいんじゃないか。せめて高校レベルの日本史の知識くらい持っておいて欲しいんだけれど。
ただ、あくまでも「総合政策学部」である以上、「実務家教員」という点から攻めるのは、やや筋が悪そうである。
もっとも、八幡本人は自分が「歴史家」だというポジションを崩したくないらしいが、ご冗談でしょう、そりゃあ。
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八幡の歴史学や歴史学者というものに対する言説がお話にならないことは間違いない。よく勉強をする時代小説家や歴史小説家のほうがよほど「歴史家」だ。
呉座と土俵が違いすぎるのが議論にならない理由の一つだけれども、一番大きな問題が歴史と現実社会との関係についての八幡の認識に端的に現れているように思う。八幡によると、
歴史をなぜ人々は学ぶかといえば、もちろん、真実を知るとかいうこと自体に意味がないわけでないが、もっと重要なのは現実の政治や経済や生き方を考えるために役に立てるためだ。そうであれば、学者だって、学会で認められること以上に、世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う。
前半は以前引用したが、強調したいのは後半で、「学者だって」「世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う」と問題はここにある。
これがいかに徹底しているかは次のFacebookの発言でもそうで、
https://www.facebook.com/kazuo.yawata/posts/2509383299135875
「そもそも社会の仕組みがまるで異なる古代や中世、近世の政治を、現代政治の視点から考察することは極めて危険である」とか仰っているのを聞くと、逆に「そもそも社会の仕組みがまるで異なる古代や中世、近世の出来事を、現代社会を考察する上で有益な経験とか前例とすることは極めて危険であるので歴史など学んでも仕方ない」という論理的帰結になりそうである。それなら義務教育から歴史なんぞはずしたほうがいい。歴史なんぞ好奇心を満たすエンタメに過ぎないということなのだから
という話にまっすぐなってしまうあたり、日本史が義務教育に入っているのはナショナルアイデンティティの育成のためという極めて政治的な目的があるのを保守派であるにもかかわらず忘却する程度に、八幡の功利的志向は極めて強い。
つまり八幡の振る舞いは、「世の中で認められることにもっと価値の重点を置く」ということを基準にしているわけで、そこは確かに徹底している。
そもそも普段相手にしている学生が、徳島文理大学レベルの学生たちであって、ちゃんとした学問がこのレベルの学生にとって無駄で無意味だと八幡は思っている。
しかも、東大法卒で元通産官僚である八幡は、世間のレベルがどの程度のものか、徳島文理大レベルとそう変わらないこともよく知っている。
つまり、完全に世間を見切っていて、それでまともな学者を激怒させる発言が次から次へと飛び出してくるのだ、と私は思う。
だから、呉座勇一が八幡和郎とまともに議論したって意味がないうえ、八幡にとっては呉座がいいカモにしかならない。
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それにしても。
八幡は一応は東大法学部卒から通産官僚になったエリートなのに、自分と比べると世間のレベルがアホを極めているところに商機を見出して(「世の中で認められることに価値を見出す」とはこのことだ)、その通りに振る舞うのが賢い振る舞いだと思っているあたり、
東大を出たからって、だからなんなの、と改めて思う。
私が「実務家教員」の問題かと疑っているのはまさにここのことで、別に「実務家」でなくても、普通に大学の先生でも似たような人はいるのではないか。
あるいは大学の先生であるかどうかも関係ない。この種の人はどこにでもいる。
トップクラスのエリートであるはずの人間の料簡が腐りきっているという場面が、あまりにも多すぎる。倫理の問題、あるいは人間はどう生きるべきかという問題をもっと真面目に考えないといけないと言いたくなる理由がこのあたりにある。
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https://twitter.com/finalvent/status/1109240177342349313
finalvent@finalvent
現在の日本人の生きづらさというのは、何者かになろうとする・何者かであれとしいられる感覚からではないかな。何者にもなれないとしてきちんと絶望すると楽になるのでは。
何者かになろうとするための「すべし」集だけでなくて、「べからず」集が多そうだ。
ただ、「絶望」はする必要はないのではないか。その「何者か」はなんでもないわけで、そこに希望を持つほうがおかしいことに気がつくかどうかが問題なので、絶望することはない。
なにか「こうしなければならない」「こうしてはいけない」というものを、一旦取っ払ってしまったらいいのに、と思うことが多い。
人は人、自分は自分。幸せのあり方は人それぞれ違う。
ただ、「自分らしく生きる」という日本語で指し示しているものが、たいてい内実のない、「こんなの素敵ぃ!」という類のことしか意味しないので私は好まない。
そうではなくて、一旦すべて取っ払ってみたら楽になりますよと。自分の素になるだけなので、絶望ではなく、もっと積極的な気持ちなのではないかと思う。
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最近、性差や性の自己認識、同性カップルなどなどの問題で少数者の権利を守れという議論が非常に活発だが、私はちょっと距離を置くことにしている。私にはよく分からないし、正直に言えば、「そりゃあ、結婚するって男と女がやるもんじゃないの?生物的に同性では結婚とは言わんでしょう」とも思っている。(他方で、イタリアだと、同性愛傾向のある子供が学校でいじめられて自殺する例がよく報じられており、それは私も知っている)
だからというわけでもないが、憲法学者が、憲法第9条の解釈改憲には堂々と反対しながら、憲法第24条の「両性の合意による婚姻」は同性婚も可能と主張したりすると、非常に呆れる。そこまでやるか。
この種の流れはもちろん世界的なものだけれども、これに対する反動の動きもある。
日本の場合、反動以前の部分があるように思うが、「少数派の人権を守る」のはいいとして、どうしてそういう議論が出てきたのかというところがきれいに抜けているのではないかと思う。だから、多数派が少数派を「守ってやる」という態度に出ているように見えて、そこが私の気にくわないところだ。
つまり、人は一人一人違う、という事実から議論を出発させないといけない。
私は性的にはマイノリティではないが、しかし別の面から見れば立派なマイノリティで、いろんな偏見にさらされてきている。それが嫌で随分回り道をした。
しかしこれは誰しもそうであって、それぞれにマイノリティの部分があるはずであり、つまり一人一人違う。あなたは自分のことを多数派だと思っているかもしれないが、それはとんでもない間違いだ。
みんな仲良く一緒、などと言うことはあり得ないのであり、幸せの形も人それぞれ違って当然だ。
「何者かになろうとする」「何者かであろうとする」ということは、ある種のモデルに自分を合わせようとすることだろう。モデルがあれば、その通りにやればいいので楽な面もあるが、モデルと自分は違うので同じようにならないのも当然だ。
だからモデル通りにやらないか、やるとしてもモデルと違っても構わないと自分を是認しないといけない。
マイノリティの人権保護も同じ文脈から出てくる議論のはずで、一人一人、違う存在であることをまず素直に認めようということだろう。人間らしく生きるとはそういうことだと、私は思っている。
そうすれば、もうちょっと楽になるんじゃないの、と声をかけたくなる人は、結構いそうである。